【第77話】鉄砲の問答
永禄九年(一五六六年)。
尾張国境の最前線に位置する大高城。その奥まった一室で、今川義元は不機嫌に脇息に肘をついていた。
手元には、配下の忍び衆や商人から集められた数通の書状がある。
『尾張の織田信長、和泉の堺や近江の国友にて、法外な値で鉄砲を買い集め候』
鉄砲。二十年あまり前に種子島に伝来したという異国の筒。義元も以前からその存在を知り、情報を集めさせてはいた。しかし、雨に弱く、一発撃つごとに筒の中を清めねばならないという手間の多さから、戦場で役に立つかは、まだ見極められていないというのが今川家の軍学衆の評価であった。
だが、あの桶狭間を生き延び、今川の強大な物量を相手に小勢で兵糧道ばかりを叩き続けている「うつけ」が、意味もなく銭を捨てるはずがない。
「なぜ信長は、あれほど鉄砲を集める……?」
義元は独り言ちた。今川も鉄砲の真の価値を早急に見極めねばならない。
調べるうち、義元の耳にある奇妙な噂が届いていた。駿府の御用商人である遠州屋が、堺の大商人と手を組み、南蛮渡来の硝石という火薬の元になる材料を大量に買い付けているという。
鉄砲の筒そのものではなく、なぜ硝石なのか。
ふと疑問に思った義元は、その遠州屋から直接話を聞いてみようと考えた。側近であり、この大高城の城主にして己の妹の子(甥)でもある鵜殿長照にその旨を告げた。
「遠州屋の商人を呼べ。鉄砲の商いについて問いただしたい」
しかし、命じられた長照は、ひどく困惑したような顔をした。
「どうした、長照」
「……申し上げにくいのですが、太守様。現在、遠州屋には『あの男』が入り浸っております。下手に遠州屋の者を呼びつければ、その男まで関わりかねません」
「あの男?」
「朝比奈殿の告発により、御屋形様から出座を禁じられた元・寺の右筆にございます。今は遠州屋の裏に引っこみ、ありていに申せば謹慎の身にあるとか。そのような者を太守様が直々に呼びつければ、御屋形様がどう思われるか……。重臣たちの間でも無用の波風が立ちましょう」
長照の懸念を聞き、義元は不快になるどころか、むしろ深い興味を惹かれた。
「ほう……あの右筆か。雪斎の横にいつも影のようについており、雪斎の死後、氏真が重用していたあの奇妙な男か」
点と点が繋がった。一介の商人が鉄砲ではなく、火薬の元である硝石を大量に買い集めている。その裏にあの男がいるとすれば、ただの思いつきであるはずがない。何か、儂のまだ気づかぬ深い意図が隠されているのではないか。
「ますます面白い。鉄砲の筒ではなく、なぜ硝石なのか。どうしても会って話が聞きたくなった」
「太守様、ですからそれは……」
「公に呼ぶから角が立つ。ならば長照よ、うまく理由をつけて、あの男が自ら大高城に足を運ぶように仕向けよ」
有無を言わさぬ義元の命令に、長照は深くため息をつきながら平伏した。
長照は一計を案じ、小荷駄奉行として大高城に詰めている中根彦四郎を呼び出した。かつて臨済寺で共に雪斎に仕えていた彦四郎ならば、あの右筆を自然に呼び出せるはずだ。「なんとか上手い理由をつけて、あの右筆を大高城へ呼べ」と命じられた彦四郎は、義元の真意を薄々と察しながらも、「次の兵糧納入の時、帳面の突き合わせを手伝ってほしい」という、あくまで私的な友情を装った手紙をあの右筆宛てに送ったのだった。
数日後。大高城の兵糧蔵の裏手。
遠州屋の荷駄とともにやってきたあの右筆は、彦四郎と並んで帳面を開いていた。
そこへ、数人の護衛だけを連れた義元が「たまたま通りかかった」という体裁で姿を現した。
彦四郎が弾かれたように土下座し、男も慌てて平伏する。合議制の評定の場で顔を合わせたことはあったが、こうして直接一対一で向き合うのは初めてのことだった。
「面を上げよ」
義元は鷹揚に頷き、二人を見下ろした。
「遠州屋が硝石とやらを集めておるそうだな。鉄砲の実情、お主はどう見ておる」
単刀直入な問いだった。
男は、すぐには答えなかった。平伏したまま、膝の上の帳面に目を落としている。隣の彦四郎が、ちらりと男の横顔を窺った。
答えを持っていない顔ではない、と義元は見た。持っていて、出すかどうかを量っている顔だ。
「申せ。儂が問うておる」
男の肩が、わずかに強張った。
「……恐るべき得物かと、存じます」
それだけ言って、口を閉じた。
「それだけか」
「堺の商人たちの間では、いずれ弓や槍に取って代わるのではないか、と」
「弓や槍に取って代わるだと? 戯れ言を。商人は戦を知らん。火縄の筒は弾込めに手間がかかりすぎる」
男は、また黙った。何かを言いかけて、唇が一度だけ動き、止まった。
義元は、待たなかった。
「黙るな。手間がかかる筒を、なぜ信長は集める」
「……数を、集めれば」
男は、ようやく顔を上げた。目が、義元を見ていなかった。義元の肩の向こうの、どこか遠いところを見ていた。
「撃つ者、込める者を分け、組で動かせば、手間の遅さは補えます。長年鍛えた武士も、数月仕込まれただけの足軽の筒に倒される。……そういう得物に、ございます」
言い終えてから、男はまた目を伏せた。言いすぎた、という顔だった。
「なるほど」
義元は獰猛な笑みを浮かべた。
「ならば、我らも銭に物を言わせ、奴ら以上に鉄砲を買い集めて正面から撃ち合うべきか?」
男は、長く黙っていた。
「申せ」
「……鉄砲は、雨に弱く、玉薬の減りがひどく速い代物でございます」
それしか言わなかった。だが、それで足りた。
「ならば、わざわざその土俵に乗らずともよい。天候を選び、硝石の道を断てば、奴らの戦い方は自ずと崩れる。……そういうことだな」
義元が結論を口にすると、男は否とも応とも言わず、ただ深く頭を下げた。
「だからこそ、お主は遠州屋を使って硝石を買い占めにかかっておるのだな」
「い、いえ、そのような恐ろしい意図は……! 硝石は薬にもなりますゆえ、商いのついでに少々買い付けているだけでございまして」
男が慌てて顔を上げ、しどろもどろに否定する。しかし、義元は獰猛な笑みを崩さなかった。
(白々しい。これほど精緻な盤面を描いておきながら、あくまで一介の商人の言い訳を貫くか)
義元は内心で深く息を呑んでいた。
己は「鉄砲という武器」の戦場での使い勝手を知りたかった。だが、この男は「武器」ではなくその武器を動かす「流れの源」という、遥かに深いところを見透かしているのだ。
義元の胸の奥で、久しく忘れていた痺れるような感覚が蘇った。
問いを重ねれば、渋々ながら、こちらの一歩先の答えが出てくる。出し惜しみをする分だけ、その一言が重い。
(……そうだ。雪斎と策を練るのは、いつもこうだった)
義元は、目の前に平伏する男の姿に、失った最大の盟友・太原雪斎の面影を見た。
かつて、「雪斎がいれば」と嘆いた天下への道。無論、この男は雪斎そのものではない。だが、問いの向こう側を見透かし、こちらの思考を叩き返すあの感覚だけは、確かに似ていた。懐かしさと、微かな切なさが義元の胸をよぎった。
「ならば、我ら今川が硝石の道を握り、あの筒を飼い慣らせば、今川の武威はさらに強固なものになるということだな?」
義元が鷹揚に問うと、男はしばらく黙ってから、平伏したまま答えた。
「……はい。今川は、強くなります」
だが、義元はその声の端々に、微かな「陰り」があることを見逃さなかった。
「何か懸念でもあるのか?」
男は、答えたくないように、しばらく唇を結んでいた。
「申せ」
「……戦が、速くなります。駆り出される人の数も、桁違いに増えます」
男は、そこで一度言葉を切った。
「戦そのものが、別の化物に変わります」
男の目は、鉄砲の力を認めながらも、どこかでそれを深く恐れていた。
力を求め、覇道を征こうとする義元とは違う。この商人は、手にした力の先にある『何か』を恐れている。臆病なのか、それとも、自分には見えない恐ろしい未来が見えているのか。
(面白い男よ)
義元はその価値観の差を腹の底で転がした。
「……圭とやら」
義元は口元に笑みを残したまま、声を低くした。
「お主の知恵、実に惜しい。だが、氏真がお主を下した裁定を、儂が覆すわけにはいかぬ」
今川の屋台骨を揺るがすわけにはいかない。当主の権威は絶対だ。
「お主は、表向きは謹慎のままでおれ。だが……裏では、この儂のために動け」
それが、氏真の裁きを薄めかねない危うい命であることを、義元は分かっていた。それでも、今はこの知恵を埋もれさせておく余裕がなかった。
圭は一瞬、戸惑ったような表情を浮かべたが、静かに深く頭を下げた。
* * *
その密会の一部始終を、少し離れた兵糧の山の陰から、じっと見つめている双眸があった。
匂坂弥三郎である。
彼は以前から、遠州屋の荷が大高城に届くたびに、「何かないか」と執拗に探りを入れていた。かつて己の父を理不尽な破滅に追い込んだ圭という男。評定で朝比奈が告発し、ついに政の場から引き摺り下ろしたはずだった。
だが、今、目の前で繰り広げられている光景はどうだ。
(……謹慎中のはずの男が、太守様と直に通じているだと?)
弥三郎の目に、どす黒い炎が宿った。
やはり、あの謹慎処分は見せかけだったのだ。あの男は今川の奥の座に居座り、罰せられることもなく、特別な庇護を受け続けている。どれだけ正論で糾弾しても、真実は歪められ、あの男だけが生き残る。
「……許さぬ。絶対に」
弥三郎が十五年間抱え続けてきた恨みの執念は、ついに確信へと変わった。
あの男を支える仕組みごと、崩さねばならない。冷たい炎が、弥三郎の腹の底で静かに燃え上がり始めていた。




