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【第76話】切り分ける男

駿河の湊町が、蜂の巣をつついたような騒ぎになった。


堺の商人・宗兵衛の仲介で、はるか西の国から南蛮人たちがやってきたのだ。彫りの深い顔立ちに、燃えるような赤茶色の髪。彼らが持ち込んだ南蛮の塩や硝子器、そして火薬の原料である硝石の噂は、瞬く間に駿府を駆け巡った。


聞けば、彼らは純粋な商いだけでなく、「免税(貿易の優遇)」と彼らの神を信仰する「布教の許可」を求めているという。


一介の商人同士で決められる話ではない。当然のように、今川家が直接動くことになった。


南蛮人が来たと騒ぎになった翌日。遠州屋の帳場に、一人の男が岡部に連れられてやってきた。


関口氏経。今川家の内政と経済を担う重鎮だ。史実において、あの織田信長よりも先に「富士大宮楽市令」を断行した銭の政の要である。評定の場ですれ違ったことはあるが、直接言葉を交わすのはこれが初めてだった。


「異国人どもの真の狙いを聞きたい。お主、堺の商人を通じて南蛮の品を積極的に仕入れておったそうだな」


関口が訪ねてきた理由は、未知の交渉相手に対する助言を求めるためだった。


僕は関口に対し、商人の視点から率直に答えた。


「免税の要求は、一見すると今川が損をするように見えます。しかし、条件付きで実利を取るべきです。問題は布教です。これだけは、どんな影響をもたらすか、まるで見通せません。断るか、少なくとも保留すべきです」


関口は鋭い視線で僕の言葉を吟味し、「相分かった」とだけ言い残して足早に駿府館へ戻っていった。


彼を見送った後、少しだけ居残った岡部が、小声でこっそりと教えてくれた。


「御屋形様は、本当はお主を直接頼りたがっておられた。だが、朝比奈殿の一件があるゆえ、お主を公の場には出せぬ。だからこそ、政務の要である関口殿を密かに寄越されたのだ」


関口の前でそれを言えば、彼の面子を潰してしまう。だからこそ後から伝えてくれたのだ。それは「氏真様は今も圭を頼りにしている」と教えてくれる、岡部なりの不器用な優しさだった。


僕の立場からは、その後の駿府館での交渉がどうなったかを知る術はなかった。


しかし数日後、再び関口が遠州屋を訪れた。今度は岡部だけでなく、三浦までもが青い顔をして同行していた。


聞けば、駿府館での交渉は完全に決裂したという。


「私の落ち度だ……」


三浦が、深い疲労を滲ませながら自嘲気味に呟いた。


関口自身は有能な官僚であり、僕の助言通りに対等に交渉を進めようとしたらしい。だが、同席した庵原忠胤、由比正信、安倍元真といった古参の重臣たちが猛反発したのだ。


彼らも決して無能ではない。むしろ、今川への忠誠心が強すぎるがゆえに、「商人風情や南蛮の夷狄ごときに、誇り高き今川が頭を下げて条件を呑むなど言語道断」という武士の誇りが勝ってしまったのだ。


「異国人どもの不遜な態度に、つい私も腹を立て、空気に呑まれてしまった。後になって冷や汗が出たよ。あれでは駄目だ。武士の誇りや格式など、彼らには微塵も通じない。……圭、お前の知恵が要る」


駿府館で公に僕が交渉の場につくことはできない。また、誇りの高い重臣たちがいる場では、僕が同席したところでまた交渉が決裂してしまう。


かくして、場所を遠州屋の離れに移し、あくまで「駿河の商人として意見を聞く」という体裁で、僕が交渉に同席することになった。


翌日。遠州屋の離れで、僕と佐夜はポルトガル商人と黒い法衣の宣教師と向かい合っていた。


女人が交渉の場に同席することに三浦たちは難色を示したが、南蛮人たちが「美しいご婦人の同席を歓迎する」と大げさに喜んでみせたことで、かえって張り詰めていた空気が和んでいた。


武士たちが後ろに控え、町人風情の商人たちが正面に座ったことに、彼らは最初訝しげな視線を向けていた。だが、僕らには武士の誇りがない。彼らを夷狄とも思っていない。だからこそ、対等に、彼らの理屈で、交渉の場を組み直せた。


「湊の銭は、一切いただきません。その代わり、駿河に卸す品を他国よりも三割安くしていただく」


通訳を介して僕の言葉を聞いたポルトガル商人が、大げさに顔をしかめて首を振った。


「それでは免税の意味がない。我々の利益が減るだけだ」


武家の重臣たちならばここで「無礼な」と激昂するだろう。だが、僕は商人として平然と商談を続けた。


「だからこそ、我々『遠州屋の荷の道』を優先的に使えるようにするのです。堺から東、東海一円の広大な範囲に、あなた方の南蛮品が確実に行き渡るよう手配します。売れる荷の量が桁違いに増えれば、三割安くした分などゆうに取り返せるはずです」


僕の隣に座る佐夜が、帳面から顔を上げてさらりと補足を入れた。


「港での倉の使用、荷駄の手配、東海道筋の宿との折衝。そこまで遠州屋が見る。三割安くても、荷が倍動けばあんたたちの勝ちだ。……ただし、うちが運べる量を超える荷は受けないよ。流れを詰まらせたら、信用を失うからね」


その具体的な条件と商売人としての手堅さに、ポルトガル商人は目を見張った。薄利多売であっても、広域流通による莫大な売り上げが見込めるなら話は別だ。


今川にとっても、目先の湊の銭を失ったとしても、他国より安く南蛮の珍しい品が集まれば、駿河に人と金が集まる。結果として今川の市はますます賑わい、今川自身も富むのだ。そして南蛮側も巨利を得る。互いに損して得を取る提案に、ポルトガル商人はついに納得し、満足げに頷いた。


「次に、布教の件です」


僕は宣教師に向き直った。


「信仰と布教の自由は、現状では許可できません」


宣教師の顔から笑みが消えた。だが、僕は間髪入れずに続けた。


「信仰は保留します。ですが、あなた方が持つ、読み書きの教え、病を治す術、天地の理といった役に立つ知恵は、受け入れたい。治療院の設立を許可し、全面的に支援します。信仰と知識を、切り分けていただきたい」


心臓が早鐘を打っていた。


切り分けなど、簡単でないことは分かっている。


僕は、海の向こうから来た信仰が、ただ祈りだけを運ぶものではないことを知っている。祈りの後ろには商人が来る。商人の後ろには、船と兵が来る。


さらに恐ろしいのは、国内の分断だ。「神の前の平等」や「異教徒排除」の教義は、一向一揆以上の宗教戦争を引き起こす。やがて為政者がそれに気づけば、必ず凄惨な弾圧と迫害が始まる。


多くの命が失われる、僕が最も恐れる未来だ。


完璧な防御などない。教育や医療という入り口から、信仰は必ず滲み込んでくる。だが、それでも僕はこれを完全に拒絶することはできなかった。


史実で信長は、南蛮人を利用することを恐れなかった。鉄砲も、商いも、彼らの知識も、必要とあれば取り込んだはずだ。だが、史実とは異なり織田は桶狭間で敗れ、歴史の歯車は狂い始めている。もしその歪みが、僕という存在がもたらしたものなのだとしたら——本来得られたはずの医学や、海の向こうの技術を、今川を通じてでもこの国に取り込まねばならない。僕はそんな勝手な責任感を感じていた。危険だと分かっていても、みすみす手放すわけにはいかなかったのだ。


沈黙の末、宣教師は穏やかな笑みを浮かべた。


「病める者を癒し、無知なる者に光を。それを許していただけるなら、我らに否やはありません」


その声に、偽りはなかった。この男は、心から、この地の人々を救えることを喜んでいる。布教の戦略としてではなく、一人の信仰者として、純粋に。


僕は、その善意にこそ、背筋が寒くなった。


彼もまた「切り分けなどできない」と分かっているのだろう。教育と医療を入り口に、いずれ教えは広がる。だが、この男はそれを狡猾な策略としてではなく、人々を救う善き行いとして信じて疑わない。悪意ある策謀家なら、まだ対抗のしようがある。だが、心からの善意で扉を開けてくる者を、どうやって拒めばいい。


互いに相手の思惑を読み合いながら、逆の計算で同じ案に合意する。冷徹な握手だった。


交渉がまとまり、南蛮人たちが離れを去った後。


* * *


遠州屋を後にする道すがら、関口氏経は密かに冷や汗を拭っていた。


(……あの男、ただ者ではないな)


物事を恐ろしく正確に分けて考え、目先の損得ではなく遥か先を見て、その上で腹を括る。武家の重臣たちがあれほど反発した異国人を、あの商人は平然と自らの盤上に引き込み、鮮やかに納得させてみせた。


銭と政を担う関口にとって、あの男が持つ異様なまでの「先を見通す目」と「危うさを背負う胆力」の価値は痛いほど理解できた。


(今川には、あの知恵が要る)


関口の中に、一人の商人に対する明確な信頼と、僅かな畏怖の念が生まれた瞬間だった。


* * *


夜の帳が下りた遠州屋の庭で、僕は一人、冷たい風を顔に受けていた。


教育も医療も手に入れた。だが、宣教師はそれを布教の入り口と見ている。


信仰が滲み込むのを防げるのか。……分からない。


謹慎の身のはずだった。政から遠ざかり、ただ帳面を眺めているだけのはずだった。それなのに、気づけば僕は、南蛮という底知れない波の際に、立たされていた。


頬を撫でる夜風が、いつもより冷たく感じた。僕は一人、小さく身震いをした。

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