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【第75話】海の向こう

遠州屋の帳場に座ることが、いつからか日課になっていた。


評定への出座は禁じられているが、右筆としての役目を解かれたわけではない。だが駿府館にはなんとなく居づらくなり、臨済寺に引きこもって寺領の帳面だけを処理するようになっていた。たまに数字の確認を求めて館から人が来るだけで、午後の時間はぽっかりと空いている。その空白を、佐夜の帳簿が埋めた。佐夜が当然のように帳面の束を差し出しただけだった。


取引先は増え続けていた。尾張方面の鳴海、熱田、津島。戦の帰趨を待たずに先に動き出した物流が、東海道に新しい筋道を開いている。


政の外、経済の中。その境界線で僕は数字だけを触り続けていた。



その商人が遠州屋を訪ねてきたのは、秋の終わりだった。


「お初にお目にかかります。堺は今井の手代、宗兵衛と申します」


禿げ上がった頭に日焼けした顔。背は低いが、目に計算高い光がある。堺の今井といえば、歴史の教科書にも名が載るほどの大豪商だ。茶器と武器と南蛮渡来品を扱い、やがて天下人たちと渡り合うことになる。


「堺の今井」という名に、店先の番頭や手代たちがざわめいた。以前から堺の仲買が取引を持ちかけてきていたが、これほどの大店の手代が直接駿河まで足を運んでくるのは初めてだ。それだけ向こうが、今の今川の商いを本気で値踏みしに来たということだろう。だが、浮き足立つ周囲とは対照的に、佐夜は落ち着いて帳場から立ち上がり、堂々と宗兵衛と向き合った。


宗兵衛は、塩や干物に加え、三河の木綿や駿河の茶などを堺経由で西の国々に流す代わりに、堺に集まる南蛮渡来品を今川領に卸す取引を持ちかけた。


「近ごろは今川の湊が活気づいておると聞きましたのでな。尾張がそちら様に傾けば、堺から三河まで陸路一筋で荷が動く。その先取りをしたいのです」


佐夜は腕を組んだ。商機を嗅ぎ取っている顔だった。


「品物は何を」


宗兵衛が懐から取り出した品目の帳面を、佐夜と僕の前に広げた。硝子の器、ビロードの端切れ、薬種、香辛料。


「京は将軍様が討たれてから荒れ模様でしてな。東の安定したお国とのお取引は、堺としてもありがたいのです」


天下の混乱が、商人の足を変えている。


佐夜は品目を一つずつ値踏みしながら、帳面に線を引いていく。大きな商いに浮足立たない。自分の店の器を測り、無理をしない。


僕は品目の帳面を斜め読みしていた。そこに、二文字が目に入った。


硝石。


筆が止まった。


硝石。火薬の原料。鉄砲を撃つために、なくてはならないもの。


鉄砲そのものは、もう珍しい品ではなかった。種子島に伝来してから二十年あまりが経ち、国内の鍛冶がこぞって写しを造っている。鉄砲は増え続けている。


だが、硝石は違う。日本では、ほとんど産出しない。硝石がなければ、鉄砲はただの鉄の筒だ。弾を撃つ力は、海の向こうからしか来ない。


硝石を握る者が、鉄砲を握る。


モノではなく、供給の構造。その流れの根本を押さえる者が、力を握る。堺は、その硝石の窓口だった。堺と取引することは、その流れの一端に手をかけることを意味する。


恐ろしい可能性が、頭をかすめた。


硝石の流通を握れば、誰が鉄砲を使えるかを左右できるかもしれない。火薬を撃てる量を絞れば、理屈の上では、戦争の規模を抑えられる。


だが、ふと気づいた。


硝石を握るということは、遠州屋が戦争の中心に立つということだ。すべての大名が硝石を欲しがる。それを持つ商人は、守られもし、狙われもする。戦を抑えたいと願いながら、戦争の心臓部に手をかける。これほどの矛盾があるだろうか。


「圭さん、何見てるの」


佐夜の声で、我に返った。


「この品目の中に、硝石があるな」


「ああ、硝石ね。鉄砲薬の元だっけ」


佐夜は品目の帳面に目を戻した。宗兵衛が頷く。


「左様で。硝石は堺でも引く手あまたでしてな。鉄砲が広まれば広まるほど、鉄砲薬が要る。薬が要れば硝石が要る。今、最も儲かる品の一つですよ」


佐夜はしばらく黙って考えていた。


僕は何も言えなかった。鉄砲がこの先の戦を根本から変えることを、僕は知っている。だが、それを佐夜に説明する術がない。なぜそんなことを知っているのかと問われたら、答えようがない。


「宗兵衛さん」


佐夜が口を開いた。


「硝石は扱います。ただし、条件がある」


宗兵衛が目を細めた。


「うちは武器を扱う店じゃない。鉄砲も、弓も、槍も、うちの蔵には入れない。硝石は……薬種と同じ扱いにする。鉄砲薬の使い道だけじゃなく、薬にも使うものだから。ただし、売り先は選ぶ。どこにでも流すわけじゃない」


佐夜の声は淡々としていた。感傷ではなかった。武器だから嫌だ、ではない。


「武器は、店を戦に縛りつける。今日儲かっても、明日、負けた側に狙われる。首を突っ込みすぎたら、勝っても負けても店がなくなる。でも、機会は逃さない。硝石は取り扱う。ただし、深入りはしない」


宗兵衛は一拍置いて、にやりと笑った。


「お見事な線引きで。堺にも、そう言い切れる商人はなかなかおりませんよ」


佐夜は表情を変えなかった。


佐夜の判断は賢い。商機を逃さず、店を戦争の中心に置かない。雇人の命を天秤にかけた上で、線を引いている。


だが僕が知っていることを佐夜は知らない。硝石の需要は佐夜が想像する何倍にも膨れ上がる。深入りしないと決めた一線が、外から踏み越えられる日が来るかもしれない。


それを言いたかった。言えなかった。


「圭さん、硝石のことが気になるの」


佐夜がふと、帳面越しに僕を見た。


「いや。ただ、扱いが難しい品だと思って」


「でしょうね。だから線を引いたの」


佐夜はそれきり追及しなかった。だが、ほんの一瞬、あの目があった。嵐の後の救助の時と同じ、僕の異質さに触れかけて、触れずに引き返す目。


なぜ硝石にそこまで反応するのか。佐夜は聞かなかった。僕も答えなかった。



宗兵衛が帰った後、僕は帳場に残って品目を帳面に書き写していた。


品名を書きながら、十年前に遠州屋に持ち込まれた南蛮の硝子細工を思い出した。あの時、佐夜はきれいな器だと喜んでいた。南蛮の品は、まだ珍しい異国の土産だった。あれから十年以上が経ち、南蛮の品は商いの品になった。遠い予感が、目の前の現実になっていた。


帳面の最後に、小さく書き付けた。


硝石。日本でほぼ産出せず。供給は堺を通る南蛮の道に頼る。需要は増加の一途。


誰に見せるためでもない。ただ、見えてしまったものを書かずにはいられない。物価差の数字を帳面の隅に書いた時と、同じだった。


佐夜が暖簾の向こうから声をかけた。


「遠がお腹空いたってうるさいのよ。ご飯にしよう」


「ああ、今行く」


筆を置いた。帳面を閉じた。


遠の高い笑い声が、店の奥から聞こえてくる。その声が、この店を支えている。佐夜が引いた一線は、この笑い声を守るためのものだ。


だが——海の向こうからやってくるものの大きさを、僕だけが知っている。硝石という小さな粒が、やがてこの国の戦を、根本から変えてしまうことを。佐夜の引いた一線が、いつまでその笑い声を守れるのか。僕には、分からなかった。


帳面を懐にしまった。物価差の数字と、硝石の覚え書きが、同じ帳面に並んでいる。


店先で遠が笑っている。佐夜が茶碗を並べている。


懐の帳面が、また少しだけ重くなった気がした。

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