【第74話】天下の空席
京から書状が届いたのは、飢饉が一段落した頃だった。
今川義元は大高城の一室で、その書状を開いた。届いたのは、京のその後を知らせる書状だった。根にあるのは、一年前の変事である。
永禄八年。松永の一党と三好方の兵が御所に押し入り、将軍足利義輝を討った。
あの時は動けなかった。飢饉の只中で民が飢え、蔵は底をつき、その上この大高城では織田との睨み合いが続いていた。天下どころではなかった。将軍家が倒れたという報せを聞いても、胸を揺さぶられる余裕すらなかった。
だが、飢饉を凌いだ今、改めてその重さが圧し掛かってきた。
将軍家が倒れた。天下を束ねる者が、もういない。
足利一門の末席にある今川。吉良家に次ぐ名門。それが何を意味するか、義元は痛いほどわかっていた。
桶狭間の泥濘が蘇った。あの日、あの雨の中で、将軍家より賜った御輿を自らの手で捨てた。足利一門であることの証を、泥の中に投げ出して逃げた。あの瞬間の屈辱は、六年経った今でも、腹の底に澱のように沈んでいる。
あの御輿を捨てたのは、生き延びるためだった。後悔はない。だが——証を捨てた男が、今度はその根源を立て直そうとしている。因果なことだ、と義元は自嘲に近い笑みを漏らした。
「力なき将軍家に代わり、我ら今川が天下の静謐を担う」
口にすれば大言壮語だ。だが、義元の中では、それは空疎な野心ではなかった。
天下を担うには、力が要る。尾張を平定し、伊勢まで押さえれば堺に手が届く。銭の道を固め、大義名分を得る。義輝亡き後、将軍家の血を誰が支えるのか。その答えを、今川が握る。
だが、その第一歩が、六年経っても踏めていない。
義元は書状から目を上げた。尾張。桶狭間で織田を退けてから六年。あの日、二万五千の軍勢で尾張を踏み、信長の首を獲りかけた。あれからもう六年だ。
なのに、清洲は落ちていない。
三河と尾張の境に腰を据え、じわじわと西へ城を伸ばしてはいる。だが信長の本拠は健在だった。木曽三川と湿地帯を盾に、あの男は正面からの大軍を受けずに粘り続けている。大軍を進めれば進めるほど、後ろの兵糧道が細くなる。信長はそこだけを執拗に噛んできた。拠点を一つ奪えば裏から別の拠点に兵を送り込んでくる。癇に障る戦い方だが、一度叩かれた男の戦い方としては理に適っていた。
天下を志すからこそ、この膠着が堪える。
側近は理由を並べる。飢饉で二年を失った。武田への備えで全軍を西に注げない。信長が清洲を拠点に粘り続けている。切り取った地も、焼き払わずに治めながら組み込んでいくから、時がかかる。
理由は、すべてわかっている。すべて正しい。
だが、と義元は思った。理由がいくら揃ったところで、尾張が落ちていないという事実は変わらぬ。天下の空席を前にして、まず足元の一歩が踏み出せぬ。
「帆が使えぬなら、水夫の腕で漕げ」
低く呟いた。逆風を言い訳にして動かぬのは、武人の理ではない。飢饉があった。武田がいる。信長が粘る。それでも進む道を探すのが、大将たる者の務めだ。
雪斎がいれば、と義元は思った。
あの男なら、この逆風の中にも、天下への航路にも、必ず一筋の道を見出しただろう。飢饉すら武田すら、盤上の駒として使い切っただろう。雪斎にとって逆風とは、帆の向きを変える口実に過ぎなかった。
だが、雪斎はもういない。
十一年前に死んだ男の不在が、今もこれほど重い。義元は一人で航路を探さねばならなかった。誰も雪斎の代わりにはなれぬ。重臣はそれぞれに有能だが、雪斎のように全体を一望し、逆風そのものを順風に変える知恵を持つ者は、二人と現れない。雪斎がいれば、と考えた時点で、義元はまだあの男の影を追っている自分に気づいた。
ふと、雪斎の横にいつも控えていた若い右筆の顔が、一瞬だけ浮かんだ。だが、すぐに別のことを考えていた。
氏真のことだ。
家督を譲った息子は、政の才がないわけではない。むしろ、重臣の顔を立てながら組織を回す技量は義元が想像していたより遥かにある。駿府から伝え聞いた弾劾の裁きなど、義元自身でもあれ以上の落としどころは思いつかない。
だが、天下を掴みに行く器かと問われれば——違う。氏真は守る男であって、切り拓く男ではない。それは欠点ではないが、乱世には致命的になり得る。
天下が安定していれば、氏真は良い治世を敷くだろう。だが、天下が荒れたままならば、氏真の代で今川は呑み込まれる。将軍家が倒れ、乱世を治める者がいなくなった今、今川の存続そのものが危うくなる。
ならば——儂が生きているうちに、道筋だけでもつけておかねばならぬ。
天下の枠組みを安定させ、氏真が守りに入っても崩れぬ土台を作る。それが、父として息子に残せる最後の仕事だった。
義元は立ち上がり、廊下に出た。秋の空気が肌を刺す。大高城の石垣の向こうに、尾張の平野が薄暮の中に沈んでいく。
天下の空席。その空席に、誰が座るのか。
義元の目は、遠くを見ていた。伊勢を。堺を。京を。
義元の目は、遠くを見すぎていたのかもしれない。
書状を懐に収め、義元は部屋に戻った。明日の軍議の段取りを考えながら、暮れていく尾張の空を見た。
小さく、数度、咳をした。秋の冷えが、思ったより身に染みた。
——第5部(鎖と綱) 完——




