【第73話】余り帳
評定の間に入れなくなって、五日が経った。
朝起きて、臨済寺の帳面を整える。昼までに終わる。午後は誰にも呼ばれない。それだけの毎日が、もう五日続いていた。
右筆という肩書きだけが残り、右筆の仕事だけがなくなった。妙な話だが、僕にはそれを不当だと訴える資格がない。泥の作法の嘘も、雪斎様の遺言を騙ったことも、全部事実だった。氏真様が評定の出座禁止で済ませてくれたこと自体が、むしろ温情だと言っていい。
昼過ぎ、岡部が顔を出した。
弾劾の前に忠告をくれた男だ。あの後、僕が駿府館に足を運ばなくなったから、顔を合わせていなかった。
「あまり根を詰めるなよ」
「根を詰めるほどの仕事がないんですよ」
「……そう拗ねるな」
岡部は扇子で膝を叩きながら、少しだけ声を落とした。
「御屋形様がな、このところ元気がない。評定の場で、ふとお主の席が空いているのを見ておられる」
僕は何も言えなかった。氏真様が僕を謹慎にしたのは、氏真様自身が下した裁きだ。それが正しかったからこそ、余計に苦いのだろう。
「もう口を出さない方がいいですよ。僕が関わると、ろくなことにならない」
「そういうことを言うな」
岡部はそれだけ言い残して去った。
それから十日ほど経った頃だった。
臨済寺の門前で、見覚えのある痩せた男が立っていた。
「……彦四郎?」
大高城にいるはずの男が、旅装のまま突っ立っている。
「なんだ、意外に元気そうじゃないか」
彦四郎は僕の顔をまじまじと見て、拍子抜けしたように言った。
「お前、大高から来たのか。何日かかったんだ」
「三日だ。駿府に届ける書状があったから、ついでにな」
ついでに、と言ったが、その「ついで」のために大高城の実務を誰かに預けてきたことくらい、僕にも分かった。
「忙しいのにわざわざ来るな。お前がいないと向こうが回らないだろう」
「佐夜と遠に会いに来たんだ。お前は、おまけだ」
彦四郎は肩をすくめて笑い、遠州屋のほうを顎で示した。
「佐夜が、店で待ってるぞ。帳面が溜まってるそうだ」
遠州屋の店先は、以前より人の出入りが増えていた。荷を担いだ使いの者が裏口から出入りし、番頭の声がひっきりなしに飛んでいる。
佐夜は帳場にいた。弾劾のことには一言も触れなかった。ただ、帳簿の山を指さして言った。
「三月分が合わないの。頼むね」
それだけだった。佐夜はいつも、そうだ。何も聞かない。何も詮索しない。ただ、手の届く仕事を差し出す。
帳面を繰り始めてすぐに気づいた。取引先の名前が増えている。見慣れない地名が帳簿の端に並んでいた。鳴海、熱田、津島。尾張方面の商人だった。
桶狭間から六年。今川は尾張の東半分を押さえ、清洲の信長と睨み合ったまま動かなかった。だが、その均衡がこの頃になって、少しずつ崩れ始めているらしい。今川方の城砦が尾張の内へ一つ、また一つとじわりと伸び、人と物の流れが変わり始めていた。まだ清洲は落ちていない。信長は健在だ。だが、戦の帰趨を待たずに、東海道を行き交う荷だけが先に動き出していた。
「堺の仲買が、うちに直に取引を持ちかけてきたんだよ」
佐夜が何気なく言った。
「今川の湊を使いたいんだって。尾張が今川に傾けば、堺から三河まで、陸路で途切れずに荷が運べるようになる。それを見越して、先に繋がっておきたいらしい」
商人は、武士より先に国境を越える。当たり前のことだが、その当たり前が帳簿の上で形になっているのを見ると、奇妙な実感があった。
筆を走らせながら、数字を拾っていく。そのうちに、一つの歪みに突き当たった。
同じ塩が、駿河では一升あたり六文で買えるのに、尾張方面の帳簿では十二文を超えている。倍だ。
理由は簡単だった。関所だ。東海道の宿場ごとに関があり、宿ごとに問丸がいる。関は荷ひとつにつき銭を取り、問丸は積み替えるたびに口銭を取る。一つ一つは知れた額だ。だが数えてみると、駿府から尾張まで十七。重なれば、倍になる。領土が広がれば広がるほど、この内なる壁が物の流れを堰き止めてしまう。
「これは……」
思わず声が漏れた。佐夜が顔を上げる。
僕は口を閉じた。これは政の話だ。関所をどうするか、荷の流れをどう繋ぐか。そんなことを口にする立場にはもういない。
佐夜はしばらく僕の顔を見ていたが、やがてふっと鼻を鳴らすように笑った。
「何か気づいたなら、帳面にだけ書いておけばいい」
筆を帳場に戻しながら、佐夜は続けた。
「誰がいつ読むかは、帳面が決めるから」
乾いた言い方だった。優しさとも、突き放しとも取れる。だが、佐夜がこういう言い方をするとき、それは大抵、僕のために言ってくれている。
帳面の隅に、小さく書き付けた。駿河六文、尾張方面十二文。関銭と、問丸の口銭。宿ごとに重なる。
誰に見せるためでもない。ただ、見えてしまったものを書かずにはいられない。僕の、どうしようもない性分だった。
夕刻近くなって、荷を運び込んできた商人が番頭と世間話をしているのが耳に入った。
「京は、ますます荒れておるそうな。将軍様を殺した松永と三好の連中が、今度は互いに争うておると」
「将軍様を殺しておいて、仲間割れか」
「天下はますます荒れるばかりよ」
僕の筆が止まった。
永禄の変。去年の五月、足利義輝が松永と三好に討たれた。史実通りだ。殺した者同士が争い始めたのも、僕の知る歴史の通りだった。
だが、それ以上は考えが回らなかった。飢饉の傷はまだ癒えていない。僕は謹慎中で、目の前には佐夜の帳面が積み上がっている。京の政変は、今の僕には遠い出来事だった。
筆を再び走らせた。
この報せが、大高城で尾張に執念を燃やしている義元様の耳にどう届くか。足利一門としての義元様の中に何を揺り起こすか。それを僕が知るのは、もう少し先のことだ。
帳面を閉じて筆を置くと、店先から笑い声が聞こえた。
遠だった。五つになった息子が、安吉の膝の上で何かを指さしている。安吉が大袈裟に驚いて見せると、遠がけらけらと笑った。
佐夜が暖簾の向こうから顔を出し、遠の頭をぽんと叩いた。
「安吉さんの邪魔しないの」
「邪魔ちゃうもん」
安吉が目を細めて笑う。腕の傷はもう目立たない。桶狭間の泥の中で負った傷が、六年の歳月で白い線になっていた。
この景色が、僕の帳面の数字の先にある。
駿河と尾張の値の差も、関銭も問丸の口銭も、堺の仲買の思惑も、全部、この店先の笑い声を支えるための仕組みの一部だ。そう思うと、帳面の隅に書いた数字が、少しだけ重くなった。
翌朝、臨済寺の帳面を片づけに坂を登りながら、あの日、紙片の余白に自分で書き足した言葉が不意に蘇った。
わしの代わりを、一人で背負うな。
だが今、僕は背負うことすら許されていない。評定に出られない右筆に、背負える荷はない。
坂の途中で立ち止まり、振り返った。朝靄の中に駿府の町並みが広がっている。僕が作った仕組みで回っている町。僕がいなくても、回り続ける町。
それでいい。それで、いいはずだ。
だが、懐に入れた帳面が、かすかに重い。
帳面に書いただけだ。口は出していない。
僕はそのまま坂を登った。




