【第72話】裁き
朝比奈泰朝による弾劾の評定から、数日が過ぎた。
氏真様からの沙汰は出ない。「片側の言い分だけで裁けば、禍根が残る。この件は、余が預かる」という言葉のまま、不気味なほどの沈黙が駿府の館を包んでいた。
僕の日常は変わらなかった。書物庫にこもり、前線から送られてくる帳簿をめくり、数字を合わせる。だが、周囲の空気は確実に変わっていた。
帳簿の受け渡しで顔を合わせる下役たちは、どこかよそよそしく目を伏せるようになった。彼らも馬鹿ではない。今川の重臣である朝比奈泰朝が僕を公然と弾劾したことは、すでに城内の誰もが知る公然の秘密になっていた。
岡部元信も顔を見せなくなった。彼なりの配慮なのか、それとも朝比奈との距離を測っているのかは分からない。
それからさらに二日が経った夕刻、氏真様から呼び出しがかかった。
評定の間ではない。氏真様の私室だった。
部屋に入ると、氏真様は一人で脇息にもたれかかっていた。人払いがされている。
「座れ」
促されて、僕は平伏した。
氏真様はしばらくの間、僕の顔をじっと見ていた。その瞳は評定の場で見せる当主のそれではなく、ただ真意を探ろうとする静かな光を宿していた。
「人払いは済ませた。ここでのやり取りが外に漏れることはない」
氏真様は少しだけ声を落とし、僕に真っ直ぐに向き直った。
「泰朝が申したこと、一つ一つお主に問う。言い訳も取り繕いもいらぬ。ただ真実のみを余に述べよ」
粥場の費用と成果の算段。僕が泥の作法と呼んできた、十五年前の帳簿の誤魔化し。そして、雪斎様の遺言の真偽。
氏真様は淡々と問いを重ねた。僕は何も隠さず、すべて事実の通りに答えた。粥場で武田に貸しを作れると申し上げながら、武田の民が己の殿と今川を比べるところまでは読めていなかったこと。代官の数字のズレを「忠義の備蓄」と咄嗟に嘘をついて取り繕ったこと。そして、雪斎様が遺言を書き残したわけではなく、僕が雪斎様の名を騙って体制を作ったこと。
すべて真実だった。そして、その真実が僕を有利にするものは何一つなかった。
氏真様は黙って僕の言葉を聞いていた。顔色は変わらない。怒りも、失望も浮かべていない。ただ、事実を己の中で咀嚼するように、目を閉じていた。
「明日、評定を開く」
それだけを告げると、氏真様は僕を下がらせた。
翌日。評定の間には、重い緊張が満ちていた。
上座に氏真様が座り、左右に重臣たちが控えている。朝比奈泰朝は微動だにせず前を見据え、岡部元信は難しい顔で扇子を弄っていた。
僕は末席で頭を下げながら、じっとりとした冷や汗を流していた。昨夜、僕は自分の罪をすべて氏真様に打ち明けた。特に雪斎様の遺言を騙ったことは、当主への明白な反逆だ。この場で首を刎ねられるか、駿河から追放されるか。どちらに転んでもおかしくはなく、僕の運命はこれから発せられる氏真様の言葉一つに懸かっていた。
「先日の朝比奈泰朝からの訴えについて、余の裁きを申し渡す」
氏真様のよく通る声が、広間に響いた。全員が息を呑む気配がした。
「まず、右筆が政に口を出し過ぎているという件についてだ」
氏真様はゆっくりと見回した。
「先の評定で、余が右筆に策を問うた。そしてその策を採用し、粥場の設営と物資の手配を命じたのも余だ。右筆は問われたから答え、命じられたから手配をしたに過ぎぬ。政に口を出し過ぎているのではなく、余が口を出させているのだ」
氏真様はそこで言葉を区切り、泰朝を見据えた。
「もちろん、泰朝の申す通り、敵になるやもしれぬ流民に今川の米を食わせるのかと不満を持つ者がおるのも事実であろう。他国では飢えによる争いが起きているとも聞く。だが一方で、粥場を設けて以降、我らの領内で村が襲われたり、流民との争いが起きたという報告は一件もない。前線の飢えは凌がれ、武田への備えにもなった。手続きの不備があるなら直せばよいが、この成果を無視して右筆の出過ぎた真似だと咎めるのは筋違いというものだ」
泰朝の表情は変わらない。だが、その眼光は鋭く氏真様を捉えていた。
「次に、十五年前の遠江での一件。代官の帳簿のズレを右筆が勝手な理屈をつけて誤魔化し、朝比奈に不必要な負担を強いたという話だが」
氏真様はそこで言葉を区切り、泰朝を真っ直ぐに見据えた。
「泰朝。あの場には、亡き雪斎が同席していたはずだな」
「はっ。その通りにございます」
「ただの計算違いなら直せば済む話だ。雪斎ほどの男が、なぜ右筆の勝手な理屈をそのまま見逃したと思う?」
泰朝は答えなかった。いや、答えられなかったのだ。
「朝比奈の側にも、何か表沙汰になれば都合の悪いことでもあったのではないか?」
広間が静まり返った。
代官の不正は、単なる一人の罪ではない。地方の代官が年貢をごまかさねばならないほど、朝比奈本家への上納が厳しかったという構造の問題だ。雪斎様はそれを見抜いていたからこそ、僕の嘘にあえて乗り、朝比奈の面目を保つ代わりに砦修復の負担を強いた。氏真様もまた、その真相に気づいている。
だが、それをこの場で公にすれば、朝比奈家そのものを罰せねばならなくなる。氏真様はあえて寸前で矛を収めたのだ。泰朝もそれに気づき、沈黙するしかなかった。
「まあ、よい」氏真様は言葉を継いだ。「いずれにせよ、当時の圭はただの右筆に過ぎぬ。そのような沙汰を最終的に捌く権限など持っていなかったし、雪斎ほどの男が右筆ごときの言に惑わされるほど愚かではない」
氏真様はそこで一度息をつき、僕を一瞥した。
「最後に、雪斎の遺言を詐称して合議制を敷いたという件についてだ。雪斎はすでに亡く、今となっては真実を知る術はない。ただ、結果として今の合議制はうまく回っている。余も重宝しておる」
そこまで言って、氏真様の声が少しだけ硬くなった。
「だが、結果が良ければ手続きを軽んじてよいというわけにはいかぬ。今後、亡き雪斎や余の威を勝手に借りる者が出てきても困るからな。右筆には過ぎた振る舞いを反省させるため、当面の間、評定の場への出座を禁ずる」
氏真様は立ち上がり、一段高い場所から一同を見下ろした。
「右筆が案を出し、手配をしたとしても、粥場も合議制も、最終的な決定を下したのは余である。つまり、そういうことよ。右筆の差配に過ちがあったとしても、決定権者たる当主が判断を誤らねば良い。この今川の政は、余がすべて見極める」
それは、強烈な統治宣言だった。
雪斎様の遺言という軛から抜け出し、今川氏真という一人の当主が、自らの意思で国を率いるという宣言。
そして、氏真様は再び泰朝に向き直った。その顔には、先ほどまでの厳しい表情はなく、どこか包み込むような穏やかさがあった。
「泰朝よ」
「はっ」
「お主は余へ、今川の当主たるもの、周りの言に惑わされず、判断を下すよう身を賭して諫言してくれたのだな」
泰朝の肩が、微かに震えたのが見えた。
「その忠義、見事である。お主の諫言、しかと余の胸に刻んだ」
それは、一歩間違えれば家中を二分しかねない重臣からの弾劾を、「忠義の諫言」へと昇華させる魔法のような言葉だった。
圭を罰すれば、実務が滞る。訴えを無下に退ければ、譜代の家臣団が離反する。氏真様は、そのどちらも選ばなかった。自身の責任と器を示すことで、誰も敗者にしない裁きを下したのだ。
「ははっ……。ありがたき幸せに存じます」
泰朝は深く頭を下げた。
だが、僕は見てしまった。泰朝が頭を下げる瞬間、その口元が微かに歪んだのを。
己の覚悟を込めた弾劾が、氏真様の言葉一つで都合のいい「諫言」に書き換えられてしまった。さらには、自家の後ろめたさまで見透かされ、反論の余地を完全に奪われた。
氏真様の裁きは完璧だった。完璧すぎたがゆえに、泰朝の胸中には、氏真様への忠義に対する小さな、しかし決して消えない亀裂が生まれていた。
* * *
同じ頃、大高城の代官所。
匂坂弥三郎は、駿府からの早馬がもたらした評定の結果を、無表情で聞いていた。
圭は評定への出座を禁じられただけで、右筆の職は解かれなかった。朝比奈泰朝の弾劾は、当主への忠義ある諫言として褒め称えられた。
誰も敗者にしない、見事な沙汰。
周囲の者たちが氏真の器の大きさを称賛する中、弥三郎だけは冷ややかな目で帳面を見つめていた。
十五年前、父の人生を壊したのは、圭の咄嗟の嘘だった。
そして今日、朝比奈の弾劾を無力化したのも、氏真による「解釈の書き換え」という政の手管だった。
上に立つ者たちは、言葉一つで事実を書き換え、都合のいい真実を作り出す。
そのしわ寄せで泥を被るのは、いつだって自分たちのような末端の人間だ。父もそうだった。そして今、朝比奈泰朝でさえも、その巧みな手管の中に絡め取られた。
真実は、またしても歪められた。
弥三郎は筆を置き、薄暗い土蔵の中で一人、静かに目を閉じた。
その胸の中で、冷たい炎が静かに、しかし確実に燃え上がっていた。




