【第71話】帳面の裏
粥場が決まった日のことだった。
「圭の案を採る。粥場を置く」
氏真の声が広間に落ちた。評定が終わろうとしていた。
匂坂弥三郎は末席で静かに頭を下げた。決定に従う。それだけだった。
だが、喉の奥には、評定で言いかけて飲み込んだ言葉が残っていた。鳴海の外れで、米を渡して帰した者が、倍の数になって戻ってきた。粥を出せば、人は集まる。大高で帳面を預かる者として、それを言うつもりだった。
広間を出た。渡り廊下を一人で歩いた。
圭の案を採る。氏真はそう言った。
圭。弥三郎を大高の代官所に呼んだのは、この男だった。三浦の台帳に名があった弥三郎を見つけ、駿府に呼び、面談し、大高に配置した。「苦労されたのですね」と、あのとき穏やかに言った。弥三郎の過去に、それ以上踏み込まなかった。
太原雪斎の弟子。雪斎の死後も実務の中枢にいて、氏真に重用されている。合議制を導入したのもこの男だと聞いた。右筆という肩書の割に、今川の政に深く食い込んでいる。
粥場も、この男だった。恩のある男の案だ。異は唱えまい。弥三郎は大高への帰路、馬の背に揺られながら、そう決めた。
弥三郎には、十五年間抱えている疑念があった。
——申し開きも立たぬ愚か者めが。
父の怒声と共に、庭先に蹴り飛ばされた。土の味がした。見上げると、縁側から父が激怒の形相で見下ろしていた。だがその目の奥にあるのは怒気ではなく、保身と焦りだった。芝居だと分かっていた。分かっていても、体に食い込んだ痛みは本物だった。
父は遠江で朝比奈家の代官をしていた。管轄の村は痩せた土地ばかりで、駿府への年貢と朝比奈本家への上納を合わせれば、百姓の手元には冬を越す米が残らなかった。父は帳簿の数字を少しだけ少なく見せ、浮かせた分を貧しい村に回していた。
それが中根彦四郎に見つかった。
駿府で何があったか、詳しくは弥三郎の耳に入っていない。分かっているのは結果だけだ。朝比奈家全体が砦の修復という大出費を強いられた。地方の代官が納める貧しい一領地の帳簿のズレが、なぜ朝比奈家全体を巻き込む砦修復にまで膨らんだのか。父はその全責任を被り、弥三郎は役目も婚礼の資金もすべて奪われた。
雪斎と中根がやったことだと、弥三郎はずっと思っていた。
粥場の米を出すために、尾張の前線へ回すはずだった兵糧の一部を、遠江へ振り替えることになった。その帳面の突き合わせが、大高の代官所に回ってきた。城から届く物資と一緒に届けられる帳面に目を通していた時、弥三郎の手が止まった。
中根彦四郎。署名欄に、その名があった。
こんなに近くにいるのか。弥三郎は名前だけは知っていた。義元のそばで帳面方として働いている男。父の不正を暴いた男。恨みの対象だった。だが顔を見たことはない。十五年間、弥三郎はその恨みを表に出したことがなかった。淡々と帳面を見て、腕を磨き、信用を積む。それが弥三郎のやり方だった。
だが、目の前の帳面にある彦四郎の署名が、弥三郎の中の何かを揺らした。
帳面の数字について確認したい箇所がある、と弥三郎は城に使いを出した。数字の食い違いは実際にあった。口実ではない。だが、それだけが理由でもなかった。
彦四郎は快く応じた。翌日、弥三郎は大高城の帳面方の詰め所を訪ねた。
会った彦四郎は、弥三郎が思い描いていた男とはまるで違った。帳面の話になると早口になり、数字の筋が通ると嬉しそうに頷く。弥三郎が匂坂だと知っているのかいないのか、少なくとも態度に含むものはなかった。
「匂坂殿は帳面が正確だ。大高の帳面がこれだけ整っているのは、お主のおかげだろう」
「恐れ入りまする」
「圭殿が言っていたよ。大高に優秀な帳面方がいる、とな。あの方の目は確かだ」
弥三郎は表情を変えなかった。
帳面の突き合わせが終わった後、彦四郎は茶を勧めてきた。弥三郎は断る理由がなかった。
「匂坂殿は遠江の出だと聞いた。俺もだ。遠江のはずれの、小さな代官所で帳面を見ていた」
彦四郎は懐かしそうに言った。弥三郎は茶碗を口に運びながら、静かに相槌を打った。
「実はな、俺も圭殿に引き上げてもらった口でな。あの方がいなければ、俺は今頃まだ地方の代官所の土蔵で、ちまちまと帳面の整理をしていただろう」
彦四郎は笑いながら言った。自慢だった。恩人を誇る、屈託のない自慢だった。
「粥場もそうだ。あの発想は並の者には出せん。だが、圭殿が本当に凄いのは昔からでな。若い頃に一度、朝比奈の帳簿の不一致を俺が見つけて、正面から指摘してしまったことがある。武士の面目を真っ向から潰した。首が飛ぶところだった」
茶碗を口に運ぶ手が、わずかに止まった。
「そのとき俺を助けてくれたのが、圭殿だ」
彦四郎の顔に、深い感謝の色が浮かんだ。弥三郎にとっては父の破滅の始まりである出来事が、彦四郎にとっては恩人の武勇伝だった。
「あの人は凄い。俺が指摘した帳面のズレを、朝比奈の忠義のための備蓄だと言い換えてみせた。あの場で咄嗟にだ。おかげで朝比奈の面目も立ち、俺の首も繋がった。雪斎様ですら感心しておられた」
弥三郎は黙って聞いていた。
雪斎と中根ではなかった。圭だった。あの場で口を開き、「忠義の備蓄」という筋書きを作ったのは、この男の恩人である圭だった。
自分を大高に引き上げてくれた恩人が、自分の人生を壊した張本人でもあった。
茶碗を置いた。礼を言い、帳面を抱えて城を出た。
代官所への帰り道、弥三郎は父のことを考えた。
父を憎んではいない。貧しい配下を見捨てられなかった男だ。帳簿を操作したのは私欲のためではない。上は掠め取り、下は飢える。その歪みの中で、父は自分の裁量でできる精一杯のことをしただけだ。
だが、その精一杯は、上から見れば不正だった。見つかれば罰を受ける。それ自体は仕方がない。
弥三郎が許せないのは、その後の仕組みだ。
一代官のズレを、朝比奈家全体への砦修復にまで膨らませた差配。あれは圭の即席の嘘から生まれたものだ。圭は彦四郎を救った。だがその嘘の余波で、朝比奈は想定外の出費を強いられ、その責任を被る者が必要になり、父が切り捨てられた。
圭に悪意はなかったのだろう。彦四郎を救うことだけを考えていた。だが、悪意がなかったからといって、父の人生が壊されたことは変わらない。
上は仕組みを作る。下はその仕組みの中で潰される。泥を被るのは、いつも末端の者だ。父がそうだった。弥三郎自身もそうだった。
この構造の頂点に、今川の政があり、それを支える圭がいる。
恨みではない。少なくとも、恨みだけではない。弥三郎が求めているのは、真実を明るみに出すことだ。あの沙汰が「忠義の備蓄」などではなく、一人の右筆の咄嗟の嘘だったということを。
大高に戻ってしばらくして、別の噂が弥三郎の耳に入った。
朝比奈泰朝が、右筆の圭を快く思っていないという話だ。粥場への不満。右筆の分際で政に口を出しすぎるという批判。圭の存在感が大きくなりすぎているという懸念。
朝比奈は、弥三郎にとっても因縁の相手だ。父に泥を被せたのは、朝比奈の上の者だ。
だが今、朝比奈と弥三郎の間には、共通の名前がある。
弥三郎は、自分でも意外なほど冷静だった。恨みで動くのではない。帳面の裏に隠された真実を、表に出す。それだけのことだ。
朝比奈泰朝への取り次ぎを、弥三郎は静かに手配し始めた。




