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【第70話】告発

粥場の後始末を終えて駿府に戻ると、書物庫には半月分の帳簿が積まれていた。


彦四郎は尾張の前線に出ている。帳簿の山を崩せるのは僕しかいない。三日で片づけるつもりだった残務が五日かかり、五日がさらに伸びて、気づけば十日になっていた。


その日の夕暮れ、帳簿から顔を上げたところに岡部元信が来た。


「少し歩かんか」


用件も言わず、そう言われた。岡部が僕を個人的に誘うのは珍しい。帳簿を置いて廊下に出ると、岡部は庭に面した渡り廊下をゆっくりと歩き始めた。


「粥場、よくやった」


耳を疑った。評定で「百が千になるぞ」と言い、三十石の帳面を見せたときも「結果論だ」と返した男だ。


「……岡部殿は、反対しておられたのでは」


「反対した。次も同じようにいくとは、今も思うておらん」


岡部は、庭の松を見たまま言った。


「三十石で百人を十月。餓死も止めた。武田との衝突も起きなかった。今度ばかりは、お主が正しかった。それは言うておく」


「ありがとうございます」


「ただ」と岡部は声を落とした。「あの粥場を、面白く思っておらん者もおる」


「……どなたですか」


岡部は答えなかった。庭の松に目を向けたまま、しばらく黙っていた。


「圭。お主は知恵が回る。回りすぎる」


「は……」


「知恵が回る者は、周りの者に二つのものを与える。一つは頼りになるという安堵。もう一つは、いずれ自分を出し抜くのではないかという恐れだ」


岡部の横顔は穏やかだった。だが、言葉の底には、戦場を幾度もくぐった者だけが持つ重さがあった。


「目立ちすぎるな。出すぎた杭は、打たれる前に折られる」


それだけ言い残して、岡部は渡り廊下を去った。



僕は書物庫に戻り、帳簿に向かい直した。


面白く思っておらん者。誰のことだろう。岡部は名を出さなかった。


粥場は氏真様の決断だ。僕は求められた実務をこなしてきただけだ。知恵が回ると言われても、僕は自分にできることをしただけで、誰かを出し抜こうとしたことはない。


正しいことをしているはずだった。飢えた者を生かした。討伐より少ない米で、武田との衝突を避けた。帳面の数字がそれを裏付けている。


だが、正しさが敵意を生むことがある。その可能性を、僕はどこかで切り捨てていた。


帳簿の文字が滲んで見えた。疲れのせいだと思った。



四日後。


氏真様の評定に呼び出された。何の件かは知らされなかった。


広間に入ると、上座に氏真様が座し、左右に重臣たちが並んでいた。岡部元信の顔もある。だが、岡部はこちらを見なかった。


正面に、朝比奈泰朝が座っていた。


朝比奈泰朝(あさひなやすとも)。遠江に強い影響力を持つ朝比奈家の現当主で、先代・泰能の息子だ。泰能は合議制の評定で僕と何度もやり合った相手だったが、弘治三年に亡くなっている。泰朝とは直接の面識が薄い。


「圭殿。粥場の件について、お訊ねしたい」


泰朝の声は静かだった。


「天竜川の砦の外に粥場を設け、武田の流民に粥を施した。その結果、武田の民は今川に恩を感じ、己の殿を恨む言葉を口にしておる。盟約の相手の民に、主を恨ませたのでござる。武田がこれを恩と受け取るか、侮りと受け取るか」


泰朝は、一度言葉を切った。


「一方で、遠江の百姓は、己の納めた米が他国の者に渡ったと怒っておる。盟約を危うくし、領内の百姓を怒らせた。これが融通策の結果にござる」


僕は黙って聞いていた。事実だ。反論する箇所はない。


「某が問うておるのは、この策の出所にござる。発案し、御屋形様に進言したのは、どなたか」


僕は言葉に詰まった。答えは、僕だ。


泰朝は僕の沈黙を待たずに続けた。


「もう一つ。十五年前のことを、お訊ねしたい」


空気が変わった。重臣たちの視線が鋭くなった。


「天文の頃。朝比奈家の備蓄米の帳簿に、ある計算違いが見つかったことがあった。単なる数え間違いだった。ところが、その計算違いを逆手に取り、帳簿を書き換えて朝比奈に負担を強いる形に仕立てた者がいる。結果として、何も知らぬ代官の一人が罪を被った。後から調べれば調べるほど、あの帳簿の動きは偶然ではない。意図を持って操作されていた疑いがござる」


僕の背筋に冷たいものが走った。


泥の作法。


十五年前、僕がとっさについた嘘だ。彦四郎を救うため、朝比奈の中抜きを、忠義のための備蓄だと言い換えた。その嘘の泥を、顔も名も知らない朝比奈家の誰かが被った。あの件を、なぜ泰朝が知っている。


「さらにもう一つ」


泰朝の声は淡々としていた。だが、畳みかけの意図は明らかだった。


「雪斎様がお亡くなりになった後、圭殿は評定の場で、こう申された。合議制は雪斎様の最後の御命令である、と。あの言葉によって、重臣たちは反論できなくなった。父・泰能は生前、こう申しておった。あの遺言、本当に雪斎のものか、と」


広間が静まり返った。


「十五年前に偽りの理屈で人を謀り、亡き師の遺言を借りて政を動かし、今また、相身互いの名を借りて盟約の相手の民を手懐ける。圭殿。貴殿は目的のためならば、偽りを厭わぬ御仁ではござらぬか」


反論できなかった。


泥の作法は事実だ。遺言の利用も事実だ。どちらも僕自身が後ろめたく思い続けてきたことだ。彦四郎を救うためだった。今川を回すためだった。だが、嘘をついたことは変わらない。


「某が申し上げたいのは」と泰朝は氏真様に向き直った。「今川の政が、一人の右筆の策謀によって歪められている恐れがある、ということにござる。御屋形様が御自身のお考えで政を決めておられるのか、それとも、この者に操られておられるのか。今川の秩序のために、この疑念を明らかにすべきと存ずる」


泰朝の弾劾は、私怨ではなかった。少なくとも、そう聞こえるように組み立てられていた。氏真様への忠義。今川の秩序。正論だった。だからこそ、反論の隙がなかった。


僕は広間の中に味方を探した。岡部は目を伏せていた。忠告はしてくれた。だが、この場で僕を庇えば、岡部自身が朝比奈との対立に巻き込まれる。公の場で中立を貫くのは、武士として当然の判断だった。


彦四郎は尾張にいる。雪斎様は死んだ。義元様も尾張だ。


この場に、僕の味方はいない。


氏真様が、扇子で膝を叩くのをやめた。


「泰朝」


氏真様の声は静かだったが、広間の空気が一瞬で締まった。


「お主の申すことは分かった。ただ、一つ訊く。余は、誰かに操られるような愚者に見えるか」


泰朝の顔色が変わった。


「い、いえ、そのようなことは断じて——」


「まあよい」


氏真様は泰朝の慌てた弁明を手で制した。


「お主の訴えに、理がないとは言わぬ。だが、少しばかり一方に偏っておるようにも見える。片側の言い分だけで裁けば、禍根が残る。この件は、余が預かる」


それだけだった。僕を守るとも、泰朝の訴えを退けるとも言わなかった。


広間が静まり返った。氏真様がどう裁くのか、誰にも読めなかった。僕にも、泰朝にも。



広間を出た僕は、渡り廊下に立ち尽くした。


岡部の声が蘇った。目立ちすぎるな。出すぎた杭は、打たれる前に折られる。


あの忠告は、これのことだったのか。


正しいと思っていた。粥場も、泥の作法も、合議制も。そのときそのときで、僕にできる最善を選んだつもりだった。だが、正しさは免罪符にならない。正しいことをした者が報われるとは限らない。この時代では、正しさそのものが刃になる。


氏真様はまだ裁きを下していない。だが、次に広間に呼ばれた時、僕は何と言えばいいのか。泥の作法は事実だ。遺言の利用も事実だ。どちらも否定できない。


帳簿なら得意だった。数字の辻褄を合わせ、仕組みを作り、回すことならできた。だが、自分自身の弁明は、帳簿のようにはいかない。


雪斎様が生きていれば。彦四郎がこの場にいれば。そう思って、すぐに打ち消した。結局、僕は誰かに守ってもらわなければ、この場に立つことすらできない人間なのだ。


僕には派閥がない。武功もない。出自もない。雪斎という後ろ盾はもういない。十五年間、政を動かしながら、政の表に立つ覚悟だけは持たずにきた。


冷たい廊下に立ち尽くしたまま、答えが見つからなかった。

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