【第69話】甲斐の冬
永禄九年の冬。甲斐は寒かった。
躑躅ヶ崎館の広間には炭が焚かれているが、それでも床の冷えが膝を伝う。武田信玄は上座に座し、目を閉じたまま、家臣の報告を聞いていた。
まず、飢饉の被害。
信濃の南部で村がいくつか潰れた。田を棄てた百姓が山に逃げ、山の者に襲われ、何人かが死んだ。甲府の盆地の田でも収量は平年の五割を切り、年貢の未納が増えている。軍役に出す余力のない国衆が、出兵を免じてほしいと訴えてきている。
信玄は黙って聞いた。この手の報告は、今年に入ってから何十通と積み上がっている。
次に、民の流出。
信濃の南端、遠山筋から天竜川沿いに今川領へ流れた者が、少しずつ戻り始めている。戻ったのはよい。だが、戻った者たちが村で語っていることが、問題だった。
「今川の国境の砦に行けば、粥がもらえた。武器を置いて列に並べば、一人一合、飯を食わせてもらえた」
報告する家臣が、そこで言い淀んだ。
「申せ」
信玄は、目を閉じたまま言った。
「耳に痛いことほど、早う申せ」
「……帰った者たちが、村々でこう申しております。今川の殿様は粥をくれた、おらたちの殿様は何もしてくれなかった、と」
信玄は目を開けなかった。
知っている。粥場の件は、とうに耳に入っていた。信濃の国衆から何通もの書状が届いている。今川が国境の砦の外に粥場を設け、信濃から流れてきた民に粥を施しているらしい。受入は一日百人ほど、武装解除を条件とし、帳面で管理しているという。駿府の今川からも書状が来ていた。同じ災いに共に当たる盟約の家として、武田の民を預かる、と。
建前としては、筋は通っている。今川は同盟の相手だ。その相手が、武田の民を食わせてくれた。怒る理由がない。怒れば、恩を売られた側が、喧嘩を売ることになる。
だが、怒る理由がないことが、最も腹に据えかねた。
施しではない。あれは、楔だ。
粥一合で、民の心に今川の名を刻んでいる。おらたちの殿様は何もしてくれなかった。その一言が、刃物より深く刺さる。
儂は人の心を動かすために、兵を動かしてきた。だが、こんな戦い方は知らん。
信玄は、ようやく目を開けた。
「塩の値はどうだ」
家臣が書状を広げた。
「駿河からの塩、依然として今川の値で入っております。ただ、飢饉で買い入れる銭が細り、量が足りませぬ。越後の海から入れる道は上杉が押さえており、こちらも安定しませぬ。甲斐の塩蔵は、あと三月で底をつきます」
塩。
この国の最も深い弱点だった。山に囲まれた甲斐には海がない。塩は外から買うしかない。南の今川、北の上杉。どちらかの手を通さなければ、甲斐に塩は入らない。今川が値を動かせば、甲斐はそれに従うしかない。
苛立ちではなかった。もっと冷たいものだった。
塩を握られている限り、武田は今川に首根を掴まれているのと同じだ。今は同盟があるから、値は許容の範囲に収まっている。だが、いつでも締め上げられる。その鎖は、昔から変わっていない。
鎖を断つには、自前の塩が要る。自前の塩を得るには、海が要る。
海は、駿河にある。
信玄はその考えを、胸の奥に静かに沈めた。今ではない。今はまだ、同盟を壊す時ではない。だが、いつまでも壊さずにはおれぬことも、分かっていた。
信玄は話を戻した。
「粥場を仕切っていたのは誰だ」
「今川の砦の守備兵と、駿府から来た代官筋の者と聞いております。具体的な名は」
「分からぬか」
「はい。砦の実務を仕切る者がおったようですが、武将ではなく、帳面方の者だと」
帳面方。信玄はその言葉を噛んだ。
ここ数年、今川が妙に手堅い。雪斎が死んだ時、信玄は今川の内政が緩むと読んでいた。雪斎はあの国の骨格だった。あの男が消えれば、検地は止まり、代官の質は落ち、領内の秩序は少しずつ崩れるはずだった。
さらに、義元は家督を氏真に譲り、自らは尾張の国境に張り付いている。氏真は文の才こそあれ、義元ほどの器ではない。少なくとも、信玄はそう見ていた。義元が尾張に意識を注いでいる今、駿府は手薄になるはずだった。
なのに、崩れない。
むしろ、外から見える今川の動きは、雪斎が生きていた頃より、乱れが少ない。代官所が乱れず、塩の値が安定し、荷の流れが止まらない。切り取った尾張の東も崩れていない。人が変わっても、仕組みが止まっていない。
誰だ。
雪斎の後に、今川の内政の骨格を組み直した者がいる。しかもその者は、粥場のような手を打てる。飢えを武器にし、施しの形で敵国の民心を揺さぶる手を。
名も顔も分からない。帳面方の者、としか報告にはない。だが、信玄の中で、その輪郭のない影は、すでに一つの実体を持ち始めていた。
今川には、何かがいる。
信長もそう感じたはずだ。桶狭間で、あの男もまた何かに躓いた。御輿の囮。あの判断をしたのが義元でないなら、信長も同じ問いを抱えているだろう。
だが、信長とは違う。あの男は獲物を見つければ、すぐに飛びかかる。それが信長の強さであり、弱さだ。
信玄は動かない。
見えない相手に、拳は振るわない。正体が分からぬ者に先に手を出せば、手の内を晒すのはこちらだ。待てばよい。相手がいずれ姿を見せる。あるいは、綻びを見せる。その瞬間を、見逃さなければよい。
それまでは、塩の鎖に繋がれたまま、静かに、待つ。
炭が爆ぜた。灰が舞い、広間の冷えた空気にゆるく溶けた。
信玄は報告の書状を閉じ、家臣たちを下がらせた。広間に一人になると、床の間に掛けられた軸を見た。孫子の四句が書かれている。信玄は、最後の句だけを見た。
山は、動かない。
動く必要がないからだ。山は、相手が来るのを待つ。来た者を飲み込む。
甲斐の冬は長い。だが、信玄は急がなかった。




