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【第89話】帳面が決める

七月に入って、遠州屋の土間から人が絶えなくなった。


尾張が今川のものになったという話は、半月もしないうちに堺まで届いたらしい。伊勢からの船が津に着き、そこから陸を回って駿府まで来る。以前は桑名で荷を下ろしていた商人が、今は掛川あたりまで平気で足を延ばしてくる。


「三日で三組だよ」


佐夜が帳場で算盤を弾きながら言った。


「昨日は南蛮の硝子を扱う店。その前は堺の紙屋。今朝来たのは伊勢の木綿問屋。みんな同じことを言う。今川の湊を使わせてくれって」


「断ったのか」


「まさか。断る理由がないもの」


帳面の丁が増えていた。以前は昼前に繰り終わったものが、今は日が暮れてもまだ残っている。名前も見慣れないものばかりだ。津、桑名、大湊。どれも伊勢湾の湊の名だった。


どれも運び賃の帳だ。遠州屋は荷を預かって運ぶ。売り買いをするのは荷主のほうで、うちが数えるのは運んだ数と、その賃金だけだ。


商いの手は、兵より早い。城が落ちたと聞けば、翌月には荷が動く。


僕はその丁を繰りながら、数字だけを追っていた。



十日ほどして、番頭が困った顔で裏へ回ってきた。


「圭様。津島から来る荷が、今月に入ってから三度も遅れております」


「道が荒れたか」


「いえ。宿場で止まっているようで」


止まる、と聞いて筆が引っかかった。


道が荒れたなら日数が延びるだけだ。止まるのは、捌く手が足りていないときに起きる。


荷が増えた。関を通る荷も増えた。関の人数は増えていない。


「他にもあるか」


「値のことで揉めておるとも。津島で仕入れたときの倍になると、荷主が怒っております」


倍。


その言葉に、覚えがあった。



夜、店を閉めたあと、僕は古い帳面を引っ張り出した。


去年のものだ。弾劾を受けて出座を止められ、することがなくなった頃、佐夜に頼まれて三月分の帳簿を片づけた。あのとき、隅に書き付けたものがある。



駿河六文、尾張方面十二文。



その下に何を書いたかも、覚えていた。


そのときは、ただ見えてしまっただけだった。口にする立場ではなかったし、口にしたところで誰も聞かない。だから帳面に書いて、閉じた。


数字は当時のままだ。変わったのは、あのとき「尾張方面」と書いた場所が、今は今川領になっているということだけだった。


倍の値で運ばれてくる荷が、今は自分の国の中を通っている。


指を挟んだまま、しばらく動かなかった。



関口氏経が遠州屋に現れたのは、その三日後だった。


前に来たのは南蛮の使いが駿河へ入ったときだから、半年あまり空いている。あのときは氏真様の密命で、交渉の助言を求めに来た。今度は誰の供も連れていない。着ているものも役所の装束ではなく、地味な小袖だった。


「商人に用があって来た」


そう言って土間に上がった。


佐夜が茶を出して、すぐ下がった。この人は、下がるべきときを間違えない。


「御屋形様より、領内の商いを立て直せと申しつかった」


関口は湯呑みに手をつけないまま言った。


その役目か、と思った。


関口氏経が何をする人かは、初めて会ったときから知っている。僕の知っている歴史では、去年のうちに富士大宮で楽市を立てた人だ。座を通さず、札がなくとも売れる市。織田信長が美濃で同じことを始めるより、一年早い。


この国では、まだ立っていない。立てる理由が、なかったからだ。


その理由を、いま申しつかってきた。


「尾張を得た。湊も三つ増えた。堺の者も伊勢の者も、こちらへ来たがっておる。国は広くなり、荷は増えた。……それなのに、蔵に入る銭が思うたほど増えておらぬ」


「増えていないのですか」


遠州屋が請けた荷も、先月とは比べものにならない。


「増えてはおる。だが、荷の増え方に釣り合わぬ。倍の荷が動いておるなら、倍とは言わずとも、それに近い銭が入ってよいはずだ」


関口は指で膝を叩いた。


「尾張を得てからこちら、ひと月あまり帳を見ておる。どこかで漏れておるとしか思えぬ。だが、どこで漏れておるのかが分からぬ。関の帳を見ても、通した荷の数は増えておる。宿場も潤っておる。誰も懐に入れてはおらぬ。それなのに、勘定が合わぬ」


漏れているのではない。


言いかけて、やめた。


この人なら、自分で着く。僕が言えば、僕が言ったことになる。


代わりに、脇の帳面を引き寄せた。


「去年のものです。面白いものではありませんが」


丁を開いて、関口のほうへ向けた。



駿河六文、尾張方面十二文。



関口は身を乗り出した。指でなぞりながら、二度読んだ。


「……これは、塩か」


「はい。一升あたりの値です」


「駿河と尾張で、倍違うと」


「去年の値です。今はもう少し開いているかもしれません」


「なぜ違う」


「下に、書いてあります」



関銭と、問丸の口銭。宿ごとに重なる。



関口の唇が小さく動いた。読み上げているのではなく、数えているのだと分かった。


「宿ごと、か」


「はい」


「駿府から尾張まで、荷を改める関はいくつある」


「僕が数えたときは、十七でした」


「十七」


関口の指が止まった。



長い間があった。


蝉が鳴いていた。土間のほうで番頭が誰かと話している声がする。関口はその音を聞いていなかった。


「一つの関で取る額は、大したものではない」


独り言のような声だった。


「荷ひとつにつき二文、三文だ。一升に直せば、一文にも満たぬ。荷主が文句を言うほどでもない。だから誰も文句を言わぬ。言わぬから、誰も直そうとせぬ」


「……はい」


「だが、関のほかに問丸がおる」


関口の指が、内訳の行へ落ちた。


「宿で荷を預け、積み替えるたび、問丸が口銭を取る。荷の値の三十分の一ほどだ。これも一つなら、知れておる」


顔は上げなかった。


「だが次の宿は、上がったあとの値から三十分の一を取る。その次も、そのまた次も同じだ」


「……はい」


「十七、重ねれば」


「倍近くになります」


「そこへ、関の分が乗る」


関口は帳面から目を上げた。


「重ねておるのは、我らか」


僕は湯呑みを見ていた。


この人は自分で数えて、自分でそこへ着いた。僕が言ったのは、宿場の数だけだ。



「関が銭を取れば、宿場が潤う。宿場が潤えば、その地の者が喜ぶ」


関口は膝の上で指を組んだ。


「だが、潤うのは宿場だ。蔵ではない」


僕に向けた言葉ではなかった。


「そのうえ、積もった分は荷の値に乗る。十七を越えてきた荷は、駿府では高い。高ければ、買い手がつかぬ」


組んだ指が、ほどけた。


「買い手がつかねば、商人はここで売らぬ。駿府を通り抜けて、売れる国で売る。堺の者は通りやすい国を通り、売りやすい国で売る。伊勢の者もそうだ」


関口は言葉を切った。切ったまま、しばらく動かなかった。


「関を通った荷は、増えておる。……市で動いた銭は、増えておらぬ。そういうことか」


「僕には、そこまでは」


「いや。そうだ」


関口は膝の上の手を見ていた。


「儂が数えておったのは、通った数のほうだ」


ようやく、目が上がった。


「関を減らせば、値は下がる。……それだけではないな。改めを待つ列も、短うなる」


宿場で止まっている、と番頭は言った。


荷が増えた。関を通る荷も増えた。関の人数は増えていない。あのとき僕が思ったのは、そこまでだ。


関を減らせば列が短くなる、とまでは考えていない。


同じところへ、この人は一人で着いた。


「では、関を減らせばよいか。……いや、減らすだけでは足りぬな」


関口は僕を見た。


「圭。ほかに、重ねておるものはあるか」


言うべきか迷って、事実だけを返した。


「駿府の市で売るには、座の札が要ります。持たぬ者は、持っている者に銭を払って借ります」


「……借り賃も、値に乗るか」


そこから先は速かった。


「関と同じだ。道で重ね、市でまた重ねておる。重ねておるものが、二つある」


言いながら、袂から自分の帳面を出した。役所の帳面だ。開いて、何か書き付け始めた。


「市の税を免じ、座を通さずに売らせれば、どうなる」


筆が止まった。関口の筆だった。


「値が下がる。値が下がれば、荷が下りる。荷が下りれば、人が来る。人が来れば……銭は、関で取らずとも、市で回る」


それは楽市だ。


去年のうちに立っているはずのものが、一年遅れて、いま、この帳場で生まれた。


口には出さなかった。言えば、この人が考えたことでなくなる。



関口は書き終えると、筆を置いた。それから、初めて茶に手をつけた。冷めているはずだった。一口で飲み干した。


「圭」


「はい」


「お主は、今、何も言うておらぬな」


「帳面をお見せしただけです」


「そうだな」


関口は短く笑った。笑ってから、笑いを収めた。


「そういうことにしておく」


立ち上がって、袴の埃を払った。


「これは、儂が考えたことだ。儂が御屋形様に申し上げる。座の者が騒ぐだろう。国衆も騒ぐ。関を持っておる者はみな騒ぐ。……騒がせておく」


「お一人で、抱えられますか」


「抱えるのが役目よ」


土間へ降りるとき、関口は一度だけ振り返った。


「去年の帳面と申したな」


「はい」


「一年余り、誰も読まなかったのか」


僕は答えられなかった。


関口は頷いて、出ていった。



夜になって、佐夜が帳場の灯を消しに来た。


「関口様、長かったね」


「うん」


「今日は、何か言ったの」


僕は帳面を閉じた。


「……数字を見せただけだ」


「ふうん」


佐夜は灯心を摘まんだ。手は止めなかった。


「それ、言ったのと同じよ」


咎める声ではなかった。算盤を弾きながら話すときと、同じ調子だった。


「見せる相手は、選んだでしょう」


去年、僕はこの帳場で口を閉じた。これは政の話だ、口にする立場ではないと思って、帳面の隅に書いて閉じた。佐夜は、誰がいつ読むかは帳面が決めると言った。


今日、それが読まれた。


火が落ちた。


「遠が起きてる」


佐夜が土間のほうへ歩きながら言った。


「行ってあげて」


僕は立ち上がった。立ち上がりながら、閉じたばかりの帳面をもう一度見た。


関が減れば、道は太くなる。太くなった道を、荷が速く通る。


速く通るのは、荷だけだろうか。

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