↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
67/70

【第67話】粥場

粥場が回り始めて、一月が過ぎた。


天竜川上流の砦の外に立てた板囲いの小屋は、もう風景の一部になっていた。朝になると流民が列を作り、武器を地面に置き、粥を受け取って去る。兵が見張り、僕が帳面をつける。毎日、同じことの繰り返しだった。


最初の三日は、列などなかった。押し合い、怒号が飛び、兵が槍の石突きで地面を叩いてようやく人を並ばせた。今のこの秩序は、最初からあったものではない。


餓死者の増加は止まっていた。


帳面の数字がそれを示している。粥場が開く前の半月で、国境の砦の周辺で確認された死者は十一人。開いてからの一月では三人。零にはなっていない。だが、増加は止まった。


武装解除も、概ね機能していた。刃物を隠し持っていた者が二度ほど見つかったが、兵が取り上げて済んだ。大きな騒動は起きていない。粥の量への不満はあるが、列は保たれている。


帳面を閉じた時、ふと思った。間に合ったのかもしれない。


蔵の消費は想定の範囲内だ。三浦と岡部が念を押した通り、襲われた村への見舞いも先に済ませてある。武田からの返書も届いた。礼の言葉はなく、ただ「国境の乱れを鎮めるため、今川の処置を了とする」とだけあった。黙認に近い。だが、黙認でも受け入れは受け入れだ。砦の兵は疲れているが、士気は崩れていない。


飢饉の最悪は、越えたのかもしれない。


だが、別のものが膨らみ始めていた。


「今川の境目に行けば、粥がもらえる」


その噂が、信濃だけでなく、甲斐の山中にまで広がっているらしい。砦へ見回りに来た三浦が、そう告げた。


粥場の受入上限は一日百人。だが、砦の周囲に滞留する者が増えている。翌日に回された者が、そのまま林の中に居座る。翌日どころか、三日、五日と動かない者がいる。粥場の外に、粥場に入れない者たちの集落ができ始めていた。木の枝と藁で組んだ粗末な小屋。焚き火の跡。川で水を汲む女たち。子供の泣き声。粥場が一つの村を生み出しつつある。


岡部の声が頭をよぎった。百が千になるぞ。


帳面の上では、粥場の受入人数は百で抑えている。だが、粥場に入れない者を含めた滞留者の総数は、もう二百を超えていた。数字に嘘はない。ただ、数え方によって見える景色が変わる。


僕が報告していたのは、粥場の中の数字だった。粥場の外のことは、帳面の枠の外にあった。


三浦は、静かにそれを指摘した。


「圭。粥場は回っている。だが、粥場の外が膨らんでいる。これは、いつまで持つ」


答えられなかった。飢饉が終われば人は減る。だが、飢饉がいつ終わるかは、誰にも分からない。


そして、もう一つ。


滞留者の中に、ある集団がいることに、僕は数日前から気づいていた。


彼らは飢えている。他の流民と同じように痩せ、同じように疲弊している。だが、何かが違った。


まず、統率が取れていた。列に並ぶ時も、翌日に回された時も、騒がない。互いに声を掛け合い、年寄りや子供を先に食わせる。列の先頭にいた痩せた男は、自分の椀を半分ほど飲むと、後ろの子供に残りを渡した。飢えているのに、秩序がある。


そして、夕暮れになると、彼らは集まって念仏を唱えた。


南無阿弥陀仏。低い声が、砦の外の林の中から聞こえてくる。一人ではない。十人、二十人の声が重なり、夕闇に溶けていく。


兵の一人が、気味悪そうに僕を見た。


「あの連中、毎晩やってます。何なんですかね」


僕は知っていた。知っていたから、答えに詰まった。


一向宗。浄土真宗の門徒たちだ。


加賀。百姓の持ちたる国。石山。信長を十年苦しめた寺。修論の本筋ではなかったが、その文字列だけは、何度も目にした。あの結束の核にあるのが、この念仏だった。


だが、目の前にいる彼らは、一揆を起こしに来たわけではない。ただ飢えて、流れて、ここに辿り着いた人々だ。念仏を唱えるのは、すがるものが他にないからだ。飢えと不安の中で、互いを支えるための祈りだった。


それは分かっている。


分かっていて、なお、僕の中に警戒が生まれるのを止められなかった。


助け合っている人々を見て、僕は怖いと思っている。そのこと自体が、少し嫌だった。


だが、その結束が、いつか別のものに変わりうることを、僕は歴史として知っている。信仰で結ばれた集団は、強い。強いからこそ、領主の統治と衝突した時、簡単には崩れない。


今はただの飢えた門徒たちだ。だが、その根は、今川の国境に下りはじめている。


僕が推した融通策が、飢えた者を救い、同時に、彼らをここに引き寄せた。敵に塩を送るこのやり方は、本当に正しかったのか。


考えるな、と自分に言い聞かせた。今は飢饉を乗り越えることだけを考えろ。


林の奥から、念仏の声がまた聞こえてきた。穏やかで、静かで、悲しい声だった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
たぶん舞台は静岡県と山梨県の県境だろうと思いますが、これだけはあり得ないので、県境には法華経日蓮宗の総本山である身延山久遠寺があり回りは日興上人の日蓮正宗大石寺本門寺など日蓮宗の本拠地です臨済宗太原雪…
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。