【第66話】敵に、塩を
三日間、僕は帳面に向かい続けた。
まず討伐案。国境の砦に兵を固めるのは、どちらの案でも必要だ。駐屯の基本費用が月あたり米四十石。これは共通でかかる。討伐案の場合、これに加えて、出撃・巡視・追い払いのための兵と兵糧が月四十石上乗せになる。合わせて月八十石。飢饉が収まるまで毎月かかり続ける。半年なら四百八十石。一年なら九百六十石。そして討ち払っても、岡部が言った通り、飢えが終わらぬ限り次の集団が来る。
次に粥場案。駐屯の四十石は同じくかかる。その上で、砦の外に粥場を一つ設け、一日あたりの受入を百人までとする。武装解除を条件とし、鋤も棒も預けさせる。粥は一人あたり一合。百人で一日一斗。月で三石。駐屯費と合わせて月四十三石。討伐案との差は、月あたり三十七石。半年で二百二十二石の差が出る。
米だけなら月三石。だが粥を炊く薪、水を運ぶ人足、釜、見張り、病人を隔てる場所まで数えれば、費えはそれだけでは済まない。それでも、討伐の出撃費用に比べれば格段に安い。
岡部の「百が千になるぞ」。これが最も厄介な懸念だった。対策として、粥場は砦に隣接させ、兵が管理する。受入上限を超えた者は翌日に回す。翌日に回す札を渡す案も考えた。だが、札が奪い合いになれば、粥場そのものが争いの場になる。正直に言えば、確実な保証はできなかった。
帳面には、そう書いた。確実ではないと。
ただし、討伐にも確実な保証はない。討って静めても、次の飢えた集団が来ないとは限らない。両案とも完全ではない。その上で、どちらが今川にとって長期的に安いかを、数字で示した。僕の推す案は粥場だ。だが、数字の上に判断を載せるのは、僕の仕事ではない。
三日後。二度目の評定が開かれた。
僕は帳面を広げた。駐屯の基本費用はどちらの案でも月四十石かかる。その上で、討伐の出撃費用が月四十石。粥場の追加費用が月三石。受入上限と武装解除の運用案。そして、どちらの案にも不確実性があることを、隠さずに報告した。
広間が静まった。
岡部が帳面を睨んでいた。
「追加が月三石で済むなら、米の問題ではない。問題は、情けをかけた結果がどうなるかだ」
「はい。情けではなく、差配です。砦の兵が食を配り、武装解除させ、人数を制限する。情けをかけるのではなく、国境の秩序を保つ仕組みとして粥場を置きます」
岡部が黙った。反論ではなく、考えている沈黙だった。
三浦が口を開いた。
「数字は分かった。だが、武田がどう出るか。それが読めぬまま決めてよいものか」
当然の懸念だった。信濃の飢饉がどの程度か、武田がこの流民をどう見ているか。情報が足りない。
氏真様が、初めて口を開いた。
「武田に筋を通す」
広間が静まった。
「今川が武田領の民に施しをする、という形にはしない。飢饉は今川も武田も共に見舞われている災いだ。盟を結ぶ家として、共にこの災いに当たる。武田の民を今川が預かる、という形で、武田に書状を送れ。三浦、文面を考えよ」
僕は氏真様を見た。
これは、僕の帳面にはなかった。僕は費用と運用の数字を並べた。だが、それを武田に対してどう位置づけるか——施しでなく同盟の相互扶助として筋を通す——これは氏真様が自分で考えた。当主の判断だった。
「圭の案を採る。ただし、粥場の運用は砦の兵が主導する。圭は帳面を預かれ。岡部、国境の兵は引かぬ。砦を固めたまま、粥場を置く。備えと融通は、両立させる」
岡部が頷いた。そして、僕の方を向いた。
「圭。融通するなら、先に襲われた村への見舞いが先だ。そこは分かっておるな」
「はい。見舞いの手配は、粥場より先に動かします」
三浦の指摘を、岡部が自分の言葉で僕に念を押した。順序の問題は、この場で共有された。
氏真様が立ち上がった。評定が終わろうとしていた。
僕は末席の方をちらりと見た。匂坂弥三郎は、静かに頭を下げていた。決定に従う姿勢だった。だがその目が、一瞬だけ、何かを飲み込むように伏せられたのを、僕は見た気がした。
評定の後、氏真様に呼ばれた。
「父上にも、早馬で伺った。返書は一行だけだった。好きにせよ、と」
氏真様の声は淡かった。
義元様がどんな顔でその一行を書いたのか、僕には分からない。それでも、息子を信じた一行だったのだろうと思った。桶狭間の後、義元様はこの若い当主に多くを任せるようになっていた。氏真様の決断を、義元様は止めなかった。
「圭。お前の案だ。うまくいかなければ、責は私が負う。だが、帳面の数字は間違えるな」
僕は頭を下げた。
その夜、部屋に戻って、ふと気づいた。
敵に塩を送る。
大学で聞いた話だ。上杉謙信が武田信玄に塩を送ったという逸話。美談として有名だったが、確か、確たる史実ではなかったはずだ。後世の人間が飾った話か、あるいは、ただの交易をそう呼んだだけとも言われていた。
なのに、僕は今、それを本当にやろうとしている。もっとも、今川と武田は今は敵ではない。同盟国だ。だが、同盟は永遠ではない。それは、歴史を学んだ人間なら誰でも知っている。
創作だったかもしれないものを、現実にしている。しかも、それが美談として後世に残るのか、敵を利した愚策として語られるのかは、分からない。
足元がまた少し、崩れた気がした。知っていたはずの歴史が、また一つ、頼れないものになる。
佐夜が茶を持ってきた。
「決まったの」
「決まった。融通する。砦の外に粥場を置いて、信濃から来た者に粥を出す」
佐夜は黙って頷いた。それから、少しだけ笑った。
「圭らしい」




