【第65話】飢えは、刃になる
報告は、二日の間に三通になった。
天竜川上流の国境筋で、流民の襲撃が続いている。蔵が破られた村は三つに増えた。死者は四人。いずれも今川領の百姓だ。
だが、この件が厄介なのは、被害の数だけではなかった。
襲っているのは、信濃から流れてきた者たちだ。信濃は、武田の国である。今川と武田は、十一年前に結んだ盟約で結ばれている。もし今川の兵が信濃の民を討てば、それは国境の小競り合いでは済まない。斬られたのが武田の領民である以上、下手をすれば、同盟そのものにひびが入りかねない。かといって、今川の百姓が殺されるのを見過ごせば、領内の民心が離れる。
現地の郡代の手には、もう負えない話だった。武田との関わりが絡む以上、当主の裁可がいる。
氏真様が評定を召集した。
駿府館の広間に、主だった家臣が集まっている。三浦、岡部。そして、国境の実務に長けた者として、大高から急ぎ戻った匂坂弥三郎。僕は末席にいた。
最初に口を開いたのは岡部だった。
「討つべきです」
声に迷いはなかった。
「国境の村が三度襲われ、四人の百姓が殺されました。これを放置すれば、流民はさらに増え、襲撃は繰り返されます。一度奪えた国は、何度でも奪いに来られる。相手が武田領の民であることは承知しております。だが、武田を恐れて手をこまねけば、今川は弱腰と見られる。武田には筋を通した上で、断固として討つべきです」
僕は黙って聞いていた。岡部の言うことは、正しい。
戦国の常識として、略奪に対する応報は当然だ。放置すれば舐められる。舐められれば次はもっと大きな集団が来る。殺された百姓の家族は、領主が仇を討ってくれると信じている。それに応えなければ、今度は領内の民心が離れる。そして岡部は、武田との同盟に触れた上で、なお討つべしと言っている。対外リスクを理解した上での強硬論だ。憤りではなく、見識だった。
岡部が末席の方を見た。
「大高の帳面方、匂坂。国境の実情を話せ」
弥三郎が居住まいを正した。促されて立つ動作にためらいはなかった。
「大高でも、この夏の終わりから、清洲の側から流れてきた者が三十ほど、鳴海の外れの蔵を破りかけました。同じ尾張の民、いずれ今川の民になる者たちと見て、一度目は、米を少し渡して帰しました。二度目は、倍の数で参りました。三度目には、近くの村の者まで混じっておりました。一度でも弱みを見せれば、それが前例になります」
弥三郎の声は落ち着いていた。意見ではなく、大高で国境の実務を預かってきた者の報告だった。この男は、自分が預かる土地と民のことを、よく見ている。
三浦が帳面を広げた。
「兵を出すなら、兵糧が要ります。今の蔵の余裕は——」
「足りる」と岡部が断じた。「国境の砦に兵を集めるだけだ。大軍は要らん。流民は百姓の寄せ集めだ。砦を固めれば、それだけで抑止になる」
僕は、まだ何も言えていなかった。
「圭。お前はどう見る」
氏真様の声だった。
僕は口を開いた。だが、最初に出てきたのは答えではなかった。
「殺された百姓の仇を、というのは分かります。岡部殿の仰ることは正論です。ただ——」
「ただ何だ」
岡部が振り返った。敵意ではない。真剣な問いだった。
「討って、静まるでしょうか。今、国境にいる流民を追い払ったとして、飢えはなくなりません。信濃の飢饉が続く限り、次の集団が来ます。そしてその次も。討ち続ける兵と兵糧は、毎月かかります」
「では何もせぬのか。領民が殺されておるのに」
「何もしないとは言っていません。ただ——」
僕は言葉を探した。蔵の数字ばかり見ていた、という悔いがまだ胸の底にある。何が正しいのか、正直に言えば分かっていなかった。
だが、岡部の言葉が頭の中で反響していた。一度奪えた国は、何度でも奪いに来られる。
その通りだ。だが、なぜ今川が狙われるのか。
備蓄に成功したからだ。蔵を満たしたことが、攻撃を呼んだ。冬に佐夜と動いた時、僕は飢饉を乗り越えることだけを考えていた。乗り越えた先に、この逆説が待っているとは思わなかった。豊かさが、標的を作っている。
「……岡部殿の仰る通り、一度奪えた国は何度でも狙われます」
僕は認めた。
「我々が豊かだから狙われる。では蔵を空にすれば安全かといえば、それは本末転倒です。だから、討つか見過ごすかの二択ではなく、三つ目を考えたい」
「三つ目」
「国境を固めつつ、砦の外に粥を出す場を作る。兵で守り、同時に、食を渡す仕組みを置く。蔵から出す米は、討伐を繰り返す兵糧よりも少なく済むかもしれません」
広間が静まった。
岡部が低い声で言った。
「うちの百姓を殺した者に、うちの米を食わせるということか」
「百姓を殺したのは、あの者たちではなく、飢えです。飢えを止めなければ、次の者が来ます」
言った瞬間、自分でもその言葉の薄さが分かった。
「飢えが殺したと言うか。だが、刃を振るったのは人の手だ。四人だぞ、圭。帳面には四と書けば済む。だが、その四人には家がある。お前の妻子が襲われても、同じことが言えるか」
僕は黙った。一瞬だけ、遠の寝顔が頭をよぎった。答えられなかった。
だが、答えられないことと、間違っていることは、同じではない。
「……情けの話ではなく、米の勘定の話です。討つたびにかかる兵糧と、粥場にかかる米と、長い目で見てどちらが安いか。そして、もう一つ。武田領の民を今川が救えば、武田に貸しを作れます。討って同盟にひびを入れるより、融通して同盟を固める方が、外に向けても利があります」
末席で、匂坂が口を開きかけた。帳面を預かる者として、数字の話には言いたいことがあったのだろう。だが、ぐっと口をつぐんだ。
岡部が追い打ちをかけた。
「粥場を置けば、そこへまた人が集まる。百で済むものが、千になるぞ」
それはその通りだ。反論できなかった。
三浦が口を開いた。
「粥を出すなら、先に襲われた村へ見舞いを出さねばなりません。順序を誤れば、助けた相手より、味方に恨まれます。それに、そもそも武田領で何が起きているのか。信濃の飢饉がどれほどか、武田がこの流民をどう見ているのか——それを掴まぬまま討つのも、融通するのも、危うございます」
三浦らしい言葉だった。誇りと面子を治める男は、民心の機微も、対外の不確実性も読む。
氏真様は、ずっと黙って聞いていた。
長い沈黙の後、氏真様が口を開いた。
「三日、待て」
広間がざわめいた。
「討つも、融通するも、軽くない。三浦は兵を出した場合の兵糧を算出せよ。圭は粥場にかかる米と手当てを出せ。三日後に、もう一度集まる」
氏真様の声は平坦だった。だが、それは決められない男の逡巡ではない。蔵の放出を「やれ」と即断したのと同じ人間が、この判断については、あえて時間を取っている。この問いの重さを、正しく測ろうとしている。
僕は頭を下げた。
三日。その間に、数字を揃えなければならない。帳面の上の正しさだけではなく、蔵の外の現実を踏まえた数字を。
岡部も、匂坂も、間違ってはいない。領民を守る責任から「討て」と言っている。
僕も、間違ってはいないつもりだ。ただ、正しいかどうかは、まだ分からない。




