【第64話】飢える
永禄八年の夏は、来なかった。
正確には、夏は来た。だが、太陽が来なかった。
五月の田植えの頃から、空は灰色のまま動かなかった。雨が降り、止み、また降る。晴れ間が続かない。稲は水に浸かり、根が腐り始めた。
六月に入ると、冷たい風が吹いた。夏なのに、朝は息が白くなる日があった。田の稲は穂を出す前に黄ばみ、立ち枯れが広がった。
冬に感じた予兆は、春の水不足ではなく、夏の冷害として現れた。
七月。三浦から報告が上がった。
「駿河の作柄、六割。遠江、五割。三河、四割強。尾張東部は検地中だが、三割を切る恐れがある」
数字を聞いた時、僕の頭はまだ帳面の上にいた。六割、五割、四割。足し引きの問題だ。備蓄と合わせれば、今川領内は何とか冬を越せるかもしれない。
問題は、備蓄の放出をいつ、誰に、どれだけ行うか。佐夜に突きつけられた問いが、もう目の前に迫っていた。
僕は氏真様に上申した。
蔵の米を三段階に分けて放出する案だ。まず兵糧を確保し、次に各郡の代官所を通じて飢えの深刻な村から順に配る。売値は平時の二倍を上限とし、それ以上の値で売る者がいれば代官所が介入する。銭を持たぬ者への施米は別に考えねばならないが、その分の米をどこから削るかは、まだ答えが出ていなかった。
氏真様は黙って聞いていた。指が膝の上で止まっている。この四年で、氏真様は数字の重さを知る人間になっていた。
「……圭。それで足りるのか」
「正直に申し上げれば、分かりません。ただ、何もしなければ、冬の前に餓死が出ます」
氏真様は少し黙り、それから頷いた。やれ、と一言だけ言った。その声には迷いがなかった。迷う暇がないことを、この若い当主はもう理解している。
三浦が配分の実務を動かし、匂坂弥三郎が尾張東部の蔵の管理を任された。僕は帳面の上で数字を追い続けた。
そこまでは、まだ帳面の中の話だった。
九月。帳面の報告だけでは、代官所が本当に米を出しているのか、村まで届いているのか分からなかった。僕は三河と遠江の境にある宿場まで、自分の足で確かめに出た。
東海道沿いの景色は、駿府とは違っていた。
最初に目に入ったのは、街道の脇に座り込んでいる老人だった。目が落ちくぼみ、肌は土色で、動かない。隣に、同じように動かない女がいた。生きているのか死んでいるのか、遠目では分からなかった。
近づいて、どこから来たのかと訊くと、老人だけが顔を上げた。
「信濃の山の方から来ました。村にはもう何も」
老人は言葉を切った。説明する気力すら残っていない。信濃から飯田街道を下り、三河を経て、食を求めて東海道へ出てきたのだろう。
僕は手持ちの干飯を渡した。老人はそれを見つめ、すぐには手を伸ばさなかった。隣の女の方をちらりと見た。
女は、もう食べる必要がなかった。
僕は、渡しかけた干飯を持ったまま、動けなくなった。手が、勝手に震えていた。修論で「餓死者」という言葉を、僕は何百回も打ち込んだ。変換して、確定して、次の行に進んだ。その一文字一文字に、この匂いは、この静けさは、なかった。
街道をさらに進むと、同じ光景が点々と続いた。座り込む者。歩けなくなった者。子供を抱えて立ち尽くす母親。赤子の泣き声が、どこかで細く聞こえていた。泣く力すら弱々しい。
宿場の水場で、痩せた男が水を手ですくっていた。飲むのではなく、隣に座った子供の唇を濡らしている。子供の目は開いているが、何も見ていなかった。
歴史書の一行には、この匂いは書かれていない。腐った稲の匂い。汗と土が混じった体臭。そして、もう匂いすらしない者たちの静けさ。
ただ、ここに座り込んでいるのは、領の外から流れてきた者たちだ。今川の民は、まだここまでには至っていない。備蓄が効いている。蔵を開く順番も、売値の上限も、機能している。
駿府に戻ったのは三日後だった。
三浦に報告をし、追加の放出案をまとめた。流れてきた者たちの有様も伝えたが、同時に、今川領内の蔵は持ちこたえていることも確かめた。備蓄は正しかった。読みは、間違っていなかった。
その夜、佐夜に聞かれた。
「どうだった」
「今川の蔵は、まだ持つ。冬は越せる」
佐夜は小さく息を吐いた。安堵だった。僕も、同じ気持ちだった。
遠が隣の部屋で寝息を立てている。この子は飢えていない。今川領にいるから。佐夜が米を押さえ、氏真様が蔵を開き、三浦が配った。その連鎖の中にいるから。
その事実が、今は素直に安堵だった。
翌朝、三浦からの急報が入った。
天竜川上流の国境筋で、信濃方面から流れてきた者たちが集まり始めている。数は日に日に増えており、武装している者もいるという。
その報告から二日と経たなかった。
二通目の急報は、三浦ではなく、国境の砦を守る武将から直接届いた。
信濃との境の村が襲われた。蔵が破られ、米が奪われた。抵抗した百姓が二人、打ち殺された。襲ったのは、飢えた流民の集団だった。盗賊ではない。ただの百姓だ。鍬と棒で武装し、飢えに追い詰められて、隣の国の蔵を襲った。
僕は報告書を握ったまま、動けなかった。
飢饉には備えた。米を買い増し、蔵を開く順番を決め、売値の上限を定めた。帳面の上では、できることはすべてやったつもりだった。
だが、これには備えていなかった。
僕は蔵の数字ばかり見ていた。蔵の外で何が起きるかを、見ていなかった。




