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【第63話】豊作の年に

永禄七年の暮れ。駿府は穏やかだった。


桶狭間から四年。短い歳月ではなかった。


尾張東部の占領地は落ち着いた。匂坂弥三郎が大高の代官所で帳面方として実績を積み、百姓出の源助も駿府の奉行所で腕を磨いている。氏真様の号令で集めた実務者たちが、それぞれの持ち場で今川の版図を支えていた。伊勢方面にも影響力は広がり、今川は駿河・遠江・三河・尾張の東にまたがる大勢力になっている。


遠州屋の廻船が清水湊から大高まで塩と木材を定期的に運ぶようになったのは三年前からだ。桶狭間の前、帳場で佐夜に荷船を押さえてもらったのが始まりだった。今では、それが今川領の物流の柱になっている。駿河の塩、遠江の木綿、三河の米。それらが遠州屋の舟に乗り、尾張の占領地まで流れていく。


この豊かさは、義元様一代で成ったものではない。先代・氏親公の頃から、金山を掘り、検地で田畑を把握し、仮名目録という分国法で国の仕組みそのものを整えてきた。義元様は東海道と海の道を束ね、商いを商人に任せた。武士がすべてを握ろうとせず、利の回る場所に利を回す。修論で数字として知っていたその先進性を、僕は今、帳面の上で生きた現実として見ていた。


遠は四つになった。走り回るようになり、佐夜は帳面と子守の合間に目が回ると笑いながら、どちらも手を抜かない。この子が大きくなる頃に、この国はどうなっているだろう。そう考える時間が、最近は増えた。


信長は清洲に籠もったまま、この四年、表立っては動いていない。動かないことが、かえって気にかかった。


平穏だった。この四年は、確かに平穏だった。


だが、歯車が回っているからこそ、見えるものがある。


最初に気づいたのは、遠を寝かしつけた後の、静かな時間だった。佐夜がその日の帳面を広げながら、ふと口にした。


「西国からの米の入荷が、ここ二月ほど少しずつ細ってる」


口調は軽い。だが、商人がこの手の数字を口にする時は、軽くない。


「堺の問屋が値を吊り上げてるのか」


「違う。そもそも米が出回ってない。摂津や播磨あたりの農家が、売り渋ってるみたい」


僕は茶を置いた。


売り渋り。農家が米を手放さないのは、来年の作柄に不安がある時だ。自分たちの食い扶持を確保するために、出荷を絞る。


「天候は」


「うちの船頭が言うには、今年の冬は妙に暖かいって。雪が少ない。山の水が足りなくなるかもしれないって、天竜川の上流の村が心配してるらしいよ」


佐夜の言葉に、僕の胸の奥で何かが冷たく動いた。


暖冬。雪不足。春の水不足。兆しだけなら、そこから先はまだ決められない。作柄が崩れる条件が、少しずつ揃い始めているというだけだ。


だが、僕は知っている。


永禄八年。史料には天下の大飢饉と記されている年だ。修論の注釈で読んだ。僕の知る歴史では、今川を主役として語られる出来事ではなかった。だが、この世界の今川は、史実よりもはるかに広い版図と物流網を抱えている。


だが、それを今、口にするわけにはいかない。


「佐夜。もし来年、凶作になったら、今の備蓄で何ヶ月持つ」


「うちの蔵だけ? それとも今川の領内ぜんぶ?」


「両方」


佐夜は帳面を閉じ、少し考えた。


「遠州屋の蔵にある米だけなら、商いを止めて四ヶ月。今川の領内全体の蔵を合わせたら、平年の年貢備蓄で半年か。でも兵糧も含めてだよ。飢饉で兵糧に手をつけるわけにはいかないから、手元に残るのはもっと短い」


足りない。もし史実通りの規模の飢饉が来れば、半年では到底持たない。


「米を買い増ししたい。今のうちに、西国だけじゃなく、東海道沿いで手に入る米を、相場が動く前に押さえておきたい」


「根拠は」


佐夜の目が光った。商人の目だ。


「暖冬、雪不足、西国の売り渋り。三つ重なったのは、ここ十年で初めてだ。外れたら、余った米は売ればいい。当たったら」


「ぼろ儲けだね」


「違う。当たったら、飢えずに済む」


佐夜は少し笑った。だが、その笑いはすぐに消えた。


「分かった。買い付けの手配はあたしがやる。ただ、大量に買えば相場が動く。他の商人にも勘づかれるよ」


「構わない。むしろ、他の商人も備蓄を始めてくれた方がいい」


佐夜は一瞬だけ意外そうな顔をした。商人にとって、相場の先読みは独占すべき情報だ。それをあえて広めてもいいと言うのは、商売の理屈に合わない。


「あんたは相変わらず変な商売人だね」


「商売人じゃない。右筆だ」


「右筆が米の買い占めを女房に頼んでるんだけどね」


佐夜はそう言って笑ったが、すぐに目を細めた。


「ねえ、一つ聞いていい。あんたが言うように米を買い集めたら、相場は上がるよ。先に町の貧乏人が米を買えなくなったら、どうするの」


僕は口を開きかけて、止まった。


その通りだ。備蓄のために米を買えば、市場に出回る米が減る。減れば値が上がる。値が上がれば、蔵を持たない者から順に飢える。飢饉が来る前に、僕の備蓄が誰かを追い詰める。


「……だから、買うだけじゃ駄目だ。売る時の値も、蔵を開く順番も、今のうちに決めておかないといけない」


佐夜は黙って僕を見た。答えになっていないことは、二人とも分かっていた。だが、答えの形だけでも先に作っておかなければ、いざという時に間に合わない。


佐夜は黙ったまま、もう帳面を開き直していた。買い付けの段取りを頭の中で組み始めている。


数日後、尾張東部から彦四郎の報告が届いた。


いつもの占領地の実務報告に混じって、短い一文が添えられていた。美濃方面の穀物相場が不自然に上がり始めている。斎藤家の領内でも、村が米を抱え込む動きがある。念のため、大高の蔵の米を増やしておく、と。


彦四郎も気づいている。あの男は数字の裏を読む。教えなくても、帳面の変調から同じ結論に辿り着く。桶狭間の前も、彦四郎は荷駄の数字から戦場の空気を読んだ。同じ目が、今度は穀物の流れの異変を捉えている。


僕は返書を書いた。同感。駿府側でも手を打つ。互いの備蓄量を月ごとに報告し合おう、と。


返書を書き終えた後、僕は匂坂弥三郎の顔を思い浮かべた。彼も大高の代官所にいる。彦四郎の備蓄の動きは、弥三郎の目にも入るだろう。あの男なら、帳面の変化にすぐ気づくはずだ。


その夜、僕は一人で庭に出た。


冬の夜空は晴れていた。確かに暖かい。星が近い。


僕は知っている。来年、この国は飢える。


だが、僕がそれを知っていると言うわけにはいかない。永禄八年の飢饉は、歴史書の一行だ。僕にとっては。


でも、ここで暮らす人たちにとっては、まだ来ていない明日だ。


だから僕は、知っているから動くのではない。備えるべき兆候が確かにそこにあるから動く。商人として。右筆として。佐夜の夫として。


米は買い増す。蔵は満たす。できることは、した。


だが、暖かすぎる冬の風に吹かれながら、僕の胸の奥には、もう一つの不安が芽を出していた。


飢饉の本当の恐ろしさは、米が足りないことではない。


飢えた人間が、何をするか、だ。


遠州屋の軒先から、かすかに潮の匂いがした。穏やかな夜だった。だが、その穏やかさが、もう長くは続かないと、僕の中の何かが告げていた。

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