【第62話】小さな棘
三浦が呼び寄せた男は、十日ほどして駿府に着いた。
匂坂弥三郎。二十五、六の、日に焼けた若い男だった。
広間に入ってきた時の所作を見て、まず感心した。武士の作法を心得ている。だが、過度に堅くもない。末端の代官所で上にも下にも頭を下げ続けてきた人間の、角が取れた丁寧さだった。手の指に墨の痕が残っている。帳面を日常的に扱っている証だ。
「遠江の匂坂と申します。昨年の尾張攻めの折、鳴海の代官所で帳面方を務めることになり、一年ほどになります」
声も落ち着いている。僕より十は若いだろう。目はまっすぐで、卑屈さもなければ虚勢もない。何かを諦めた人間の静けさとも違う。穏やかだが、芯がある。
三浦が早速、尾張東部での実務について尋ねた。弥三郎は、聞かれたことに過不足なく答えた。年貢の徴収率、未開墾地の扱い、地元の国衆との折衝。どれも具体的で、帳面に裏付けられた話だった。
「地の者との折り合いもうまいと聞いたが」
三浦が探るように言うと、弥三郎は少し考えてから答えた。
「占領地ですから、地の者は今川を警戒しております。最初は、米を量る枡を見せることから始めました。こちらの枡が大きければ、それだけで村は敵になります。同じ枡を使い、徴収を正確に行うこと。不当な取り立てはしないこと。それを帳面で示すと、少しずつ協力してくれるようになりました」
枡から入る。帳面で信用を作る。僕が雪斎様の下で学んだことと、同じことをこの男は現場で自然にやっていた。
「大高城の周辺で、靡いた国衆への恩賞配分が揉めたと聞いたが」
三浦が重ねて問うと、弥三郎は迷わず答えた。
「はい。もとの領地を安堵するだけでは足りず、加増を求める者が出ました。ですが、加増するには検地をやり直す必要があります。検地には人が要ります。その人が足りない。なので、まず安堵状だけを出して時間を稼ぎ、その間に地の者で帳面の読める者を三人ほど見つけて、簡易の検地を始めました」
僕は内心で舌を巻いた。恩賞のために土地を広げ、広げた土地を治める人が足りない。氏真様に指摘したあの循環の末端を、この男は現場で一人で処理していた。帳面が読める人間を、武士ではなく地の者から見つけて使う。源助の登用と同じ発想を、この男は自力でやっていた。
「三浦殿。この方は、すぐにでも駿府で使えます」
僕が率直に言うと、三浦は小さく頷いた。今度は「面倒が起きるぞ」とは言わなかった。代官筋の出であれば、門閥の反発は百姓の源助ほどではない。
面談の終わりに、僕はもう一つだけ聞いた。
「匂坂殿。差し支えなければ伺いたいのですが、もともと遠江の代官筋におられたのに、なぜ尾張の占領地で実務をされていたのですか」
弥三郎の表情が、ほんのわずかだけ変わった。変わったというより、一瞬だけ、何かを飲み込むような間があった。
「父が、代官所で少し揉め事がありまして。父自身は咎めを受けたわけではないのですが、辻褄を合わせるために、私がすべての役目を外されました。家にはおれなくなり、それ以来、あちこちの奉行所で日雇いのように帳面を見ておりました」
淡々とした口調だった。恨み言でも、同情を誘う語りでもない。事実を事実として述べている。
「昨年の尾張攻めで人手が足りぬという話を聞き、自分から申し出ました」
僕の胸の奥で、何かが小さく引っかかった。辻褄を合わせるために、という言葉だった。だが、なぜその言葉なのか、分からなかった。初めて会った男だ。経歴にも人柄にも、非の打ちどころはない。
「苦労されたのですね」
僕は、ただそう言った。理不尽に居場所を失い、日雇いで帳面を見る生活を続け、それでも腕を磨き、自分から尾張に名乗り出た。その根性を、僕は素直に尊敬した。
弥三郎は軽く頭を下げた。それだけだった。自分を憐れむ素振りもなければ、憐れみを求める気配もなかった。
面談が終わり、弥三郎が広間を出て行った。廊下の向こうで、誰かと挨拶を交わす声が聞こえた。
三浦が台帳から目を上げ、廊下の方をちらりと見た。何か言いかけたが、結局何も言わず、台帳に戻った。
その夜、僕は弥三郎の配置先を考えながら、手元の帳面に名前を書き込んだ。匂坂弥三郎。実務の腕は確かだ。地の者との折り合いもうまい。門閥の反発も少ない。源助とは違う意味で、今の今川家に必要な人材だ。
有能な男だ。信用できる経歴だ。
なのに、なぜだろう。胸の奥に、小さな棘のようなものが残っていた。
どこで引っかかっているのか、自分でも分からない。それなのに、何かが、静かに落ち着かない。
僕は筆を置き、夜の庭を見つめた。夏の虫が鳴いている。
……気のせいだ。きっと、人を量る仕事が続いて、少し気が立っているだけだ。
僕は帳面を閉じた。




