【第61話】人を量る
駿府館の広間が、にわかに騒がしくなったのは、氏真様の号令から十日ほど経った頃だった。
「身分を問わず、使える者を集めよ」
その一言は、思いのほか遠くまで届いた。駿河の在地武士の次男三男。遠江の国衆に仕えていた帳面方。三河から流れてきた、元は松平の代官所で筆を執っていたという男。数は多くないが、志を抱えた者たちが、ぽつりぽつりと駿府に集まり始めた。
三浦正俊がその名簿をまとめ、僕が帳簿や書状の読み書きを試す。選抜とは名ばかりの、地道な聞き取りの日々だった。
「出自と家格を書け」
三浦が開口一番にそう言い、僕はその隣で候補者の筆跡と計算の速さを見た。筆跡で育ちが分かる。計算の速さで実務の経験が分かる。二つを重ねると、その人間がどんな現場で何年働いてきたか、おおよその輪郭が見えた。
三浦は、僕の計算を見る目だけは信用しているらしい。だが、人を見る目まで任せる気は、まだないようだった。
名乗りを上げた者は、半月で百に近づいた。三浦がまず書状と出自で篩にかけ、残った三十余人を、三日かけて二人で面談した。人柄と来歴を問うのは三浦で、僕は帳面と算盤を試すだけだった。
大半は、悪くない。だが、飛び抜けた者はいなかった。代官や奉行の下に付けて、数年かけて育てれば使えるようになるだろう。それが正直な感想だった。
面談三日目。二十人以上を見てきたところで、三浦が渋い顔で呟いた。
「粒が揃っておらんな」
「……ええ。明日から任せられるような者は、まだ一人もいません」
「当然だ。すぐに使える男は、今の主に重用されている。わざわざ駿府に出てくる理由がない」
三浦の指摘は痛いほど正しかった。優秀な実務者は、既にどこかの領主に囲い込まれている。余っているのは、どこにも拾われなかった者か、何らかの事情で居場所を失った者だ。
その日の最後の候補者が入ってきた時、僕は手元の名簿に目を落としていた。
「——遠江、見付の百姓の出。源助、三十一」
顔を上げると、痩せた男が立っていた。日に焼けた肌、節くれ立った指。武士でも商人でもない、土の匂いがする男だった。
「百姓が、なぜここに」
三浦が怪訝な顔をした。無理もない。実務者の選抜に百姓が来ることは、想定されていなかった。
「村の年貢の取りまとめを、十年やっておりました」
源助は俯きがちに答えた。声は小さいが、言葉は明瞭だった。
「取りまとめ? 庄屋か」
「いえ。庄屋様の下で、帳面を預かっておりました。庄屋様が字の読めぬ方でしたので、年貢の計算と、代官所への報告書を、すべて」
「なぜ、村を出た」
三浦が問うと、源助は少しだけ唇を噛んだ。
「庄屋様が亡くなり、跡を継いだ若様に、百姓に帳面を預ける気はないと言われました」
僕は筆を止めた。百姓の出で、苗字すらない。だが、字が読めて、計算ができて、代官所への報告書まで書いていた。それを身分だけで弾かれた男だ。
試しに、架空の村の石高と年貢率を口頭で伝えた。
「石高百二十石。年貢は四公六民。ただし今年は水損で二割減。代官所へ納める米は」
源助は指を折ることもなく、すぐに答えた。
「三十八石四斗。ただし種籾を引くなら、もう少し減ります」
正確だった。それだけではない。種籾という、帳簿には載らないが現場では当たり前の控除を、この男は自分から言える。
次に、帳簿の誤りを見つける試験をした。わざと一箇所だけ数字を入れ替えた帳面の写しを渡す。源助は帳面を受け取り、指で行を追い、半刻もかからずに誤りを指し当てた。
「……ここです。米の出高と、隣村への送り高の合計が、蔵の有り高と合いません」
僕は三浦と目を合わせた。三浦の眉が、わずかに動いた。
この男は使える。帳面を横断して見る力がある。かつて僕が臨済寺の蔵で「合わない帳面」を追ったのと、同じ種類の目だ。
だが、百姓の出だ。武士の下で筆を執ることはあっても、百姓が武士を差し置いて代官所の帳面を見るなど、普通ならあり得ない。
「三浦殿。この者を、尾張東部の代官所に付けたいのですが」
僕が切り出すと、三浦は腕を組んだ。
「……悪くはない。だが、面倒が起きるぞ」
分かっていた。門閥の家臣たちは、武士でもない者が代官所に入ることを快く思わない。彦四郎を推挙した時は、少なくとも武士の家の出だった。今度は百姓だ。反発は、あの時の比ではないだろう。
「氏真様の御言葉は『身分を問わず』でした」
「言葉と、それが実際に動く時の摩擦は別物だ。お前も知っておるだろう」
三浦はそう言いながらも、源助の名を台帳に書き込んだ。「仮登用」の印を付けて。
その日の夕刻、広間の片付けをしながら、三浦が台帳の別の頁をめくっていた。
「ああ、そうだ。もう一人、気になる名がある」
「誰ですか」
「尾張東部の占領地で、実務を回している男がいるらしい。もとは遠江の代官筋の出だという。名は——」
三浦は台帳の隅に走り書きされた文字を読み上げた。
僕には聞き覚えのない名だった。
「現地の武将からの報告では、年貢の徴収も帳簿の管理も手際がよく、地の者との折り合いもうまいと。一度、駿府に呼び寄せて話を聞いてみてもよいかもしれんな」
遠江の代官筋。実務の腕が立つ。
何か引っかかるものがあったが、それが何かは分からなかった。
「……呼んでみましょう」
僕はそう答え、三浦の台帳に目を戻した。源助の名の横に、もう一つの名前が並んでいる。
広間の障子の向こうで、夏の夕暮れが駿府の街を朱に染めていた。人を集める仕事は、始まったばかりだ。だが、人を量るということの重さは、もう十分に知っていた。
彦四郎を見出した時のことを思い出す。あの時も、能力だけを見て推したつもりだった。その陰で、朝比奈家の誰かが泥を被った。顔も名も、僕は今も知らない。
今度もまた、僕の知らないところで、誰かが何かを背負うことになるのだろうか。
台帳を閉じ、僕は広間を出た。




