【第60話】足りない手
永禄四年の春。桶狭間から、もうすぐ一年が経とうとしていた。
駿府館の奥書院に呼ばれた時、僕はまだ塩の帳簿の整理に追われていた。彦四郎が書き残した塩流通の叩き台を清書し、実行に移すための具体的な段取りを詰めているところだった。
「氏真様がお呼びだ。至急、とのこと」
使番の言葉に、僕は筆を置いた。
奥書院に入ると、氏真様は一人ではなかった。三浦正俊と、数名の側近が控えている。卓の上には、尾張東部から三河にかけての広大な絵図面が広げられていた。
氏真様の顔を見て、僕はすぐに異変を感じた。
いつもの、どこか気負いすぎた真面目さではない。目が据わっている。何かを決めた後の顔だった。
「圭。父上から書状が届いた」
氏真様は卓の絵図面を指で叩いた。
「尾張東部の国衆を、今のうちに完全に取り込め、と。桶狭間から一年。膠着が続いている今こそ、地盤を固める好機だと仰せだ」
僕は黙って頷いた。義元様の判断としては合理的だ。信長が雌伏している間に、尾張の切り崩しを進める。当然の戦略だった。
だが、氏真様はそこで言葉を切り、僕を真っ直ぐに見た。
「それだけでは足りぬ」
「……と、言いますと」
氏真様は一度、言葉を切った。絵図面に視線を落としたまま、低い声で呟くように言った。
「父上が勝った。岡部が救った。雪斎の仕組みが支えた。——では、私は何を残す」
その声には、苛立ちとも焦りともつかない響きがあった。
「いつまでも、父上の背に隠れているわけにはいかぬ。父上は尾張東部の話をしている。だが、私はもっと先を見たい」
氏真様は絵図面の西端を指差した。そこには、伊勢の国の名が書かれている。
「尾張を取っても、海を押さえねば銭は流れぬ。熱田の湊だけでは足りぬ。桑名と伊勢の湊まで見ておかねば、海の利は半分しか得られぬ。伊勢の海を押さえれば、荷の道は今川のものになる。お前の奥方の商家にとっても、悪い話ではあるまい」
僕は息を呑んだ。
氏真様の目に、今までにない光があった。桶狭間の前、父の影に怯え、宿老たちの顔色を窺っていた氏真様とは違う。父を超えたい。自分の手で、何かを成し遂げたい。その渇きが、瞳の奥に灯っている。
「氏真様。仰る通り、伊勢の海を押さえることには大きな利があります」
僕は慎重に言葉を選んだ。
「ですが、実務の側から一つだけ確認させてください。新たに取り込んだ国衆や土地を、誰が治めるのですか」
「何だ、突然」
「桶狭間で勝って以来、尾張東部の国衆が今川に靡いています。大高城・鳴海城の周辺も含めれば、この一年で新たに今川の旗の下に入った領地は、少なく見積もっても駿河一国の四分の一に相当します」
三浦正俊が、僕の言葉に小さく頷いた。彼もまた、同じ懸念を抱いていたのだろう。
「問題は、それだけの領地を統治する人間が足りないことです」
僕は卓の上の絵図面に手を伸ばし、尾張東部の一帯を指で囲んだ。
「戦に勝つことと、勝った土地を治めることは、まったく別の仕事です。年貢の徴収、水利の管理、訴訟の裁定、検地の実施——どれ一つとっても、経験のある実務者が必要です。ですが、今の今川家に、新たな領地を治める実務者がどれだけおりましょうか」
「圭」
三浦正俊の声が、鋭く割って入った。
「当主の御前であるぞ。右筆の分際で、物の言い方を弁えよ」
僕は頭を下げた。確かに、出過ぎた物言いだった。
「——構わぬ」
氏真様が、低く言った。
「三浦、良い。圭、続けよ」
僕は顔を上げた。氏真様の目は、怒ってはいなかった。むしろ、続きを待っている。この男は、耳の痛い話を聞ける人間だ。異常な前任者の後を継いだ不運な男——だが、こうして臣下の率直な言葉を受け止められる器がある。
「……恐れながら申し上げます。駿河と遠江の代官は、すでに手一杯です。三河は元康殿が押さえていますが、尾張東部に送れる人間は——正直に申し上げて、ほとんどおりません」
「だが、ただ放置するわけにもいかぬ」
氏真様の声に、苛立ちが混じった。
「国衆が靡いた以上、恩賞を出さねば離反する。恩賞を出すには、新たな土地を管理して実入りを確保せねばならぬ。だが管理する者がいないと言うのか」
「はい。それが、今の今川家が抱えている、仕組みそのものの問題です」
僕は、できるだけ平静を装って言った。だが、腹の底では震えていた。
これは、今川家だけの問題ではない。
戦国大名という存在そのものが抱える、逃れようのない構造だ。
僕は絵図面の上に指を置いた。駿河を指す。次に遠江、三河、そして尾張東部へと指を滑らせた。
ここまでは、雪斎様の時代からの帳簿がある。年貢台帳、検地帳、代官の任命記録。だが、指が尾張東部を越えた瞬間、その先には何もない。帳簿そのものが、存在しないのだ。
家臣団の忠誠を保つには、恩賞を配り続けなければならない。恩賞の原資は土地だ。だから土地を増やす。だが、増やした土地を治めるには実務者が要る。実務者が足りなければ、土地だけ増やしても統治が崩壊し、かえって不満が募る。かといって土地を増やさなければ、恩賞が尽きて家臣が離反する。
進むも地獄、退くも地獄。
自転車のようなものだ。漕ぎ続けなければ倒れる。だが、どこまで漕いでも終わりがない。
漕ぎ続ける坂の先には、次の戦がある。その次の戦もある。いつか、遠もその坂に立たされる。
少なくとも、僕の知る歴史では、信長は既存の秩序を壊すことで、この循環から抜け出そうとした。
だが、この世界の信長は、まだ雌伏している。
では、僕はどうする。この循環を、壊さずに止められるのか。
分からない。桶狭間から先、僕の知る歴史はもう、あてにならない。今川が勝ってしまった時点で、この世界は僕の教科書から外れてしまった。海図を失った船のように、この先は手探りで進むしかない。
……いや。元々、僕が持っていたのは海図ですらなかったのかもしれない。ただ、四百年後から来たというだけで、この時代の誰もが当たり前だと思っていることを、当たり前だと思えなかった。それだけだ。土地を増やすしかない、と皆が信じている。その前提そのものを、僕は疑える。頭がいいからじゃない。ただ、その常識の中で育っていないから、外から眺められる。それだけのことだった。
未来を知る力は、もう半分失われた。だが、常識の外から眺めるこの目だけは、まだ残っている。今の僕に使えるのは、それくらいのものだった。
「圭」
氏真様の声で、僕は我に返った。
「お前の言いたいことは分かった。人が足りぬ。ならば、どうすればいい」
僕は口を開きかけて、止めた。
ここで僕が「答え」を出してはいけない。それは僕の仕事ではない。この国の行く末を決めるのは、氏真様自身でなければならない。
「氏真様。私に答えはありません。ただ、一つだけ申し上げられることがあります」
「何だ」
「土地を広げる前に、広げた土地を回せる人間を育てる仕組みを作ることが——おそらく、拡大よりも先に必要なのだと思います」
氏真様はしばらく黙っていた。三浦正俊が、何かを言いかけて口を閉じた。
「……父上は、戦で版図を広げてくださった」
氏真様が、ゆっくりと口を開いた。
「だが、その版図を内側から支える仕事は、父上ではなく私の仕事だ。そうだな?」
三浦正俊が、静かに口を開いた。
「……雪斎様が、かつてこう仰せでした。『馬上に天下を得るも、馬上にて天下を治むべけんや』。漢の高祖に仕えた陸賈の言葉だと」
氏真様の目が、一瞬揺れた。雪斎様の名は、この男にとって今なお重い。そして三浦の口から出たことで、それは僕一人の意見ではなく、雪斎様以来の今川の政道として響いた。
「……人を育てる仕組みか」
氏真様は絵図面から目を離し、天井の梁を見上げた。長い沈黙の後、彼は静かに言った。
「各地から、使える者を集めよ。身分は問わぬ。実務ができる者を、代官や奉行の下に付けて育てる。それが、今やるべきことだと——そういうことか」
「はい。私はそう考えます」
「三浦」
氏真様が三浦正俊に振り向いた。
「直近で、どの領地に人手が最も不足している。洗い出せ」
「は」
三浦が即座に応じる。その顔に、微かな安堵が見えた。この老臣もまた、氏真様が闇雲に版図拡大に走ることを懸念していたのだろう。
僕は奥書院を辞した。
廊下を歩きながら、自分の手のひらを見下ろした。
「身分は問わぬ。使える者を集めよ」——氏真様が自分でその結論に辿り着いた。僕が出したのは問いだけだ。答えは氏真様のものだ。
だが、その「身分を問わず実務者を集める」という方針が動き出せば、必然的に、門閥の外から人を引き上げることになる。
かつて彦四郎を推挙した時のことが、胸をよぎった。あの時も、門閥の者たちは露骨に反発した。能力ではなく家格で人を量る——そういう壁に、僕は何度もぶつかってきた。今度はそれが、もっと大きな規模で起きる。
割を食う者が、必ず出る。土地の不足よりも、人の抜擢の方が、時に人を深く恨ませる。
僕は廊下の突き当たりで足を止め、春の庭を見つめた。
桜はもう散っていた。葉桜の緑が、曇天の下で鈍く光っている。
版図は広がった。だが、その版図を支える足元は、まだ何も整っていない。
「看脚下」
雪斎様が最初に教えてくれた言葉が、不意に口をついた。足元を見よ。
天下を見る前に、まず足元から。
僕は歩き出した。まずは、三浦殿と一緒に、人手不足の実態を洗い出す作業からだ。




