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【第59話】鎖の手入れ

翌朝から、僕は塩の帳簿を片端から引き出した。

書庫の奥に積まれた帳面と書付の束。甲斐へ送る塩の量、経由する宿場の名、仲買人の名前と銭の流れ。天文二十三年の三国同盟締結以降、六年分の記録がそこにある。


「何を始めたんだ」


彦四郎が出立の準備を済ませた足で、僕の仕事場に顔を出した。尾張国境へ戻るのは明後日の朝だという。


「塩の帳簿を洗い直してる。全部」

「今更なぜ」

「昨日、自分で言ったじゃないか。完璧に回っている、って。完璧に回っているものほど、中身を見ていない。六年間、誰も精査していない帳簿が、どういう意味を持っているか確かめたい」


彦四郎は腕を組み、しばらく黙って僕の手元を見ていた。

やがて、ぼそりと言った。


「……手伝ってやろうか」

「え」

「二人でやれば半分で済む。どうせ出立は明後日だ。今日一日くらい付き合ってやる」


彦四郎が向かいに座り、僕が積み上げた帳簿の山を半分引き寄せた。

二人で黙々と数字を追う。行灯の油が減っていくのを、二度補充した。


結果は、やはり完璧だった。


甲斐への塩の供給量。年ごとの推移。商人ごとの取扱高。関所を通る荷の量と、そこから上がる通行料。どの数字も整然と並び、破綻の兆しはどこにもなかった。


だが、その完璧さこそが、僕を震えさせた。


「彦四郎。これ、見てくれ」


僕は数字を並べ替えた紙を彦四郎の前に広げた。


「甲斐が駿河から買っている塩の量。過去の軍役帳と寺社の人口書付を照らし合わせて、兵一人・民一人が一年に要る塩の量を置いて逆算した。——武田が自前で確保できる塩は、せいぜい全体の三割だ。残りの七割が、この仕組みを通っている」


彦四郎は眉をひそめた。


「つまり、我らがこの流れを止めれば」

「半年も止めれば、甲斐の塩は底を突く。兵は動けなくなる。冬を越せない村も出る」


声に出して初めて、その言葉の重さに潰されそうになった。

僕が六年前に設計した仕組みは、武田を支えていると同時に、武田の首筋に刃を当て続けている。そして武田がそれを知らないはずがない。


「信玄は気づいているだろうな」

彦四郎が低く言った。

「当然だ。あの男が気づかないわけがない。それでも同盟を維持している。今は上杉との戦が最優先で、背後を突かれるわけにはいかないからだ」


つまり、この鎖が機能しているのは、武田が「今は」我慢しているからに過ぎない。

上杉との決着がつけば。あるいは義元様に何かがあれば。


「……怖いな。これは」


僕はそれ以上、何も言えなかった。問題は見えた。だが、どうすればいいのかは分からない。僕にできるのは帳簿を読むことだけで、この仕組みをどう扱うかは、もっと大きな判断が要る。


彦四郎はしばらく口を開かなかった。

指で帳簿の数字をなぞり、何度も七割と三割の欄を行き来する。腕を組み、天井の梁を見上げ、やがて低く呟いた。


「……締めすぎた鎖は、いつか切れるな」


僕は顔を上げた。彦四郎の目が、再び帳簿に戻っていた。あの、水位と米価の相関を独力で見つけ出した時と同じ目だ。数字の奥にある構造を、彼は自分の頭で組み立て直している。


「七割を握っているなら、少し緩めて五割にする道がある。武田が自前で塩を賄える筋道を、一本だけ残してやるんだ。完全な依存を、取引に変える。鎖ではなく、綱にする」

「……それは」

「俺の管轄だ。太守様への進言も、帳簿の数字の組み替えも。お前は問題に気づいた。あとは実務の話だ」


彦四郎は帳簿の束から白紙を一枚引き抜き、筆を取った。


「出立まであと一日ある。叩き台くらいは書いておく。大高城に着いたら、太守様の機嫌のいい時を見計らって持ち出してみる」


それは、彦四郎なりの引き受け方だった。


もっとも、今川の重臣たちがこれを素直に認めるとは思えなかった。せっかく握った首筋の刃を、なぜ自分から緩めるのかと問われるに違いない。だが、その壁を越えるのも彦四郎の仕事だ。



彦四郎が発つ朝。


冬の薄明かりの中、門の前で支度を終えた彦四郎が振り返った。腰に太刀、背に陣笠。大高城の義元様の元へ戻る長い旅路だ。


「そういえば」

彦四郎が不意に言った。

「あの子の名、まだか」


奥の間から、赤子の泣き声が聞こえた。


「……遠」

「とお?」

「遠州の遠だ。遠い先まで、という意味で」


自分でもうまく説明できなかった。商家の名でも武家の名でもない。ただ、この子が歩いていく先にある、まだ誰にも見えない時代を、怖がらずに進んでほしい。白紙の地図に、自分の足で道を描ける子であってほしい。そんな祈りだった。


彦四郎は一瞬だけ目を細めた。


「悪くない」


それだけ言って、彦四郎は冬の朝靄の中を歩き去った。


門を閉め、家に戻ると、佐夜が赤子を抱いて縁側に立っていた。


「遠、ね」

「……聞いてたのか」

「声が大きいのよ、あんたたち」


佐夜は小さく笑い、赤子の頬にそっと顔を寄せた。


「遠。いい名前ね」


赤子は名前を呼ばれたことなど知らぬまま、佐夜の胸で静かに眠っていた。

小さな拳が、握ったり開いたりしている。この子が大人になる頃の世界は、もう教科書には載っていない。


だが、地面を整えることはできる。壊すのでも、放り出すのでもなく、この子が歩く道が少しでも安全であるように。


懐には、彦四郎が昨夜遅くまでかかって書いた叩き台の写しが入っていた。本書きは、彦四郎が大高へ持っていった。僕が気づいて、彦四郎が形にした。いつも、そうだ。

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