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【第58話】外れた歴史の先

永禄三年(一五六〇年)が暮れ、新しい年が明けた。


雪の降らない駿府の冬は、乾いた風が吹き抜けるばかりで、穏やかな日々が続いていた。


僕は城の一室で、うず高く積まれた書付と帳面の山に向き合っていた。


桶狭間での勝利から半年余り。今川家は、戦勝の熱狂から徐々に平時の落ち着きを取り戻しつつあった。


思えば、今の今川家の盤石な二頭体制は、すでに数年前から準備されていたものだった。弘治元年(一五五五年)に三河で起きた大規模な反乱——三河忩劇(みかわそうげき)を鎮圧し、三河を完全に掌握した義元様は、その三年後の永禄元年(一五五八年)には嫡男である氏真様に家督を譲って隠居の形をとった。


駿河と遠江という本国の統治を氏真様に預け、義元様御自らは新領土である三河の安定化と、その先にある尾張への侵攻に専念する。三河平定から尾張侵攻へという段階的な戦略と、前線と銃後を明確に分ける役割分担。あの大動員となった桶狭間への出兵は、その延長線上にある「最終段階」に過ぎなかったのだ。


桶狭間での信長の奇襲を間一髪でかいくぐった義元様は、本来の目的であった大高城と鳴海城の解放を無事に果たした。現在は、先鋒を務めた松平元康とともに大高城に入り、じっくりと腰を据えて尾張攻略に向けた再準備を進めているところだという。


だからこそ、義元様が最前線の拠点で睨みを効かせる一方、氏真様が駿府から領国全体を統治するという体制は、何の破綻もなく滑らかに機能し続けている。尾張との国境は膠着状態にあり、遠江の国衆たちも、巨大な二つの重石の下で息を潜めるように静まり返っていた。


もちろん、あの織田信長がただ黙って膠着を受け入れているとは到底思えない。だが、史実のような劇的な大勝利による求心力を得られなかった今の信長に、大高城に陣取る強大な今川の軍勢を直ちに押し返す力はないはずだった。


表面的には、何もかもが完璧にうまくいっているように見えた。


だが、僕の心の中には、冷たい鉛のような塊が居座り続けていた。


「——歴史が変わってしまった」


何度も心の中で反芻した事実だ。


本来なら、今川義元は桶狭間で討たれ、今川家は没落への道を辿るはずだった。遠江と三河は離反し、駿河は武田に蹂躙される。それが、僕が教科書で学んだ歴史だった。


しかし、義元は生還した。今川家は存続し、東海に強大な勢力を保ったままだ。


あの日、桶狭間の泥の中で歴史を動かしたのは僕の報告だったのか、それとも武将たちの決断だったのか。その答えは永遠に出ないだろう。


だが、結果として歴史は外れ、僕らはもう誰にも未来が分からない「歴史の外側」へ放り出されてしまった。


佐夜が無事に男の子を産んでくれた時、僕は誓った。歴史が変わってしまったのなら、その先を生きるしかない。この子が生きる国を、少しでもまともなものにするしかない、と。


では、具体的にどうすればいいのか。


僕は帳面から目を離し、壁に掛けられた東海から甲信越にかけての絵図面を見上げた。


塩の道、宿場の配置、関所の位置——その絵図面の上に、かつて僕が確かに「この手で作ったもの」の痕跡が、今もはっきりと刻まれていた。


「……見事なものだな、お前の作った仕組みは」


不意に背後から声がして、振り返ると彦四郎が立っていた。相変わらず、足音を立てずに現れる。


「彦四郎。驚かさないでくれ」


「驚かしたつもりはない。お前が絵図面を睨みつけて、魂が抜けたような顔をしていただけだ」


彦四郎は僕の向かいにどっかりと座り込んだ。義元様の元にいるはずの彼が駿府にいるのは、氏真様への年越しの報せと、冬場の追加陣見舞いの手配のためだという。用が済めばすぐに尾張国境へ戻るらしい。


彦四郎は帳面の束を顎でしゃくった。


「甲斐からの銭の流入量と、こちらから送る塩の量の帳尻だろう。見なくとも分かる。完璧に回っている」


彦四郎の言う通りだった。


天文二十三年(一五五四年)。雪斎様が存命だった頃に結ばれた、甲相駿三国同盟。武田、北条、今川の間で結ばれたこの強固な同盟は、今もなお健在だった。


いや、健在どころではない。史実を知る僕から見れば、異常なほどに強固だった。


本来なら、桶狭間で義元が死んだ後、武田信玄は今川との同盟を破棄し、駿河への侵攻を開始するはずだった。だが、義元が生きているこの世界線では、その兆候は微塵もない。


なぜか。


「武田は今、越後の上杉との戦に掛かりきりだ。背後を我らと北条に守られ、おまけに塩の道まで完全に我らが握っている。あの同盟は、今や武田にとってなくてはならない命綱だ」


彦四郎が淡々と事実を述べる。


その通りだ。そして、武田の生命線である「塩」の流通網を設計し、今川の経済圏に完全に組み込んだのは——他でもない、この僕だった。


六年前に雪斎様に命じられるまま、僕は商人の保護と塩の専売を絡めた流通の仕組みを考案した。甲斐へ向かう塩の量、通る宿場、扱う商人、決済に使われる銭。そのどれもが、今川の帳簿を通らなければ動かない。それは、武田を経済的に支援すると同時に、彼らの生殺与奪の権を暗に握る「鎖」だった。


あの頃から、自分が鎖の図面を引いた一人だとは分かっていた。ただ、桶狭間で義元様が死ねば、この鎖はほどける。歴史はそうだった。だから、いつか終わるものだと思っていた。


『武田の首に、決して抜けぬ鎖をな』


かつて、その仕組みを見た雪斎様がこぼした言葉が、今更になって脳裏に蘇る。


僕は、背筋に冷たい汗が流れるのを感じた。


三国同盟が強固に維持されているのは、義元が生きているからだけではない。武田が自らの意志で北の上杉に向かっている間、僕が設計した「経済の鎖」が、その背中をしっかりと支え——同時に、静かに縛り続けているのだ。


僕が蒔いた種が、僕の知らないところで芽吹き、この歴史を縛り続けている。


「どうした、顔色が悪いぞ。自分の功績に酔って目眩でもしたか」


彦四郎が皮肉げに言うが、僕は笑えなかった。


「……いや。ただ、少し怖くなっただけだ」


「怖い? 何がだ。お前が作った仕組みのおかげで、駿河は平和そのものだ。誰も血を流さずに、国が富んでいる。文官としては最高の仕事だろう」


彦四郎の言葉は、何の飾り気もない純粋な称賛だった。


だが、それが余計に僕を苦しめた。


良かれと思ってやったこと。生き延びるために、目の前の実務に必死に向き合った結果。それが、巡り巡って、この先の歴史を形作る歯車の一つになってしまっている。


かつて、朝比奈の面目を立てるために、無実の代官に罪を負わせた時と同じだ。あの時も、僕はその場を収めることしか考えていなかった。その結果がどう他人の人生を狂わせるか、想像すらしていなかった。


今は、その規模が違う。一人の人生ではなく、国と国の在り方を、僕の作った仕組みが縛っているのだ。


「……彦四郎。この鎖は、いつか誰かの首を絞めることにならないだろうか」


思わず口に出た言葉に、彦四郎は訝しげに眉をひそめた。


「何を馬鹿なことを言っている。鎖というのは、敵の首を絞めるためにあるものだ。我々の首さえ絞まらなければ、それでいいだろう」


彼の言う通りだ。それがこの時代の、戦国の当たり前の論理だ。


だが、僕はこの鎖の先を知っている。


僕の知る歴史では、義元様が死んだあと、今川は武田への塩を止めた。塩を断たれた武田は、翌年、駿河へ攻め込んだ。駿府は焼けた。


鎖は、引けば相手の首を絞める。だが絞められた側は、鎖を辿ってこちらへ来る。


家で眠っているはずの子の顔が浮かんだ。



その日の夕刻、僕は重い足取りで家に戻った。


奥の間では、佐夜が小さな赤子に乳を与えていた。


「おかえり。今日は、顔が暗いね」


佐夜は僕の顔を見るなり、すぐにそう言った。彼女の観察眼は相変わらず鋭い。


「……少し、昔の仕事のことを思い出していただけだ」


僕はごまかしながら、赤子の小さな頬にそっと触れた。柔らかく、温かい命の感触。


「六年前に作った仕組みが、今も国を動かしていると気づいて……自分が何をしてしまったのか、恐ろしくなったんだ」


ぽつりとこぼした僕の言葉に、佐夜は手を止めることなく、静かに微笑んだ。


「商いも同じよ。昔結んだ縁が、忘れた頃に儲けを運んでくることもあれば、厄介事を運んでくることもある。でもね……」


佐夜は赤子をそっと寝かしつけ、僕の目を真っ直ぐに見つめた。


「自分が作ったものなら、最後まで面倒を見るしかないじゃない。逃げるわけにはいかないでしょ」


その言葉が、胸の奥の迷いを射抜いた。


佐夜は、ふと窓から差し込む月明かりに目を細めた。


「……それと、この子の名前。そろそろ決めてよね」


そうだ。僕はもう、傍観者ではいられない。


自分が確かに作ったものが、これからどう動いていくのか。この子が生きる未来を、どう形作っていくのか。


自分が作ったものの行く末は、最後までこの目で見届けなければならない。


窓の外では、冷たい冬の風が、駿府の街を吹き抜けていた。

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