【第57話】敗者の問い
清洲城の奥の一室は、梅雨明けの湿った空気で重かった。
障子の向こうに、使われなくなった庭が見える。草が伸び放題で、庭師が組んだ石の配置が崩れかけている。蝉はまだ鳴かない。梅雨の名残の雲が低く垂れ込め、城内は薄暗かった。織田信長はその曇天を一瞥もせず、畳の上に広げた紙の束を睨みつけていた。
桶狭間から、ひと月が過ぎていた。
あの日、信長は二千の精鋭を率いて今川本陣に奇襲をかけた。豪雨を衝き、尾根筋から一気に駆け降りた。簗田政綱の物見が掴んだ本陣の位置は正確で、突入の時機にも狂いはなかった。
にもかかわらず、負けた。
御輿は空だった。
兵が斬りかかった先にいたのは、主のいない輿と、囮として残された一握りの兵だけだった。義元は既に丘の裏手へ脱出していた。奇襲が空を切り、やがて雨が上がると、二万五千の大軍が三方から包囲にかかり、二千は呑み込まれた。信長は辛うじて戦場を離脱した。
敗走の夜、信長は追手を掻い潜り、まず水野信元の緒川城に身を隠した。十日ほど息を潜め、今川の追撃が止んだのを見定めてから、清洲に戻った。その十日の間に、尾張東部の国衆がいくつか今川に靡いた。清洲へ戻る道すら、もはや安全とは言えなかった。
だが、戻ってからも、信長はこの一室から動かない。食は一日に一度。湯漬けを掻き込むだけだ。家臣を通さない。軍議にも出ない。
家臣たちの苛立ちは、日を追うごとに濃くなっている。今川は大高に腰を据え、着々と尾張制圧の布石を打っている。林秀貞は「家中の秩序が保てませんぞ」と障子越しに訴えた。佐久間信盛は「松平勢が三河から動く前に、我らから仕掛けねばなりません」と軍議を求めた。柴田勝家は何も言わなかったが、廊下で槍を研いでいる。その背中が、言葉より雄弁に雪辱を求めていた。
分かっている。だが、まだだ。
畳の上に広げた紙には、信長自身の筆で桶狭間の戦況図が何度も描き直されている。山の稜線。今川本陣の位置。自軍の進撃路。時刻。天候。
すべてが正しかった。
本陣の位置は正確だった。豪雨は接近を隠した。豪雨に紛れて斬り込めば、義元の首は獲れたはずだった。
だが、獲れなかった。
信長は紙の上に指を置いた。何十回、何百回と辿った同じ一点。今川本陣が位置を替えた時刻。
緒川に潜んでいた頃、敗走の途中で捕らえた今川方の雑兵を、水野の家臣が二人ほど連れてきてくれた。信長は自ら問いただした。本陣が動いた経緯。誰の命で。いつ。どの方角へ。雑兵の証言は断片的で、肝心な部分は「分からぬ」の一言で終わった。だが、一つだけ一致した。本陣の位置替えを命じたのは、義元本人ではなかったということだ。
突入の、おそらく四半刻ほど前。あの豪雨の中で、二万五千の軍勢の中枢が動いた。御輿を囮に残し、義元を丘の裏手へ退避させた。あの泥濘の中で。あの視界の中で。
信長はあの御輿の意味を知っていた。将軍家より賜った輿だ。今川が足利一門である証であり、義元の権威そのものと言ってよい。だからこそ信長は、あの御輿を標的に定めた。義元は必ずあの輿の傍にいる。御輿を叩けば、義元の首は獲れる。それが信長の読みだった。
だが、その御輿が囮にされていた。
偶然ではない。偶然ならば、あの御輿を捨てる判断は生まれない。義元にとって、あの輿は足利の血を証立てる旗印だ。少なくとも信長の知る義元なら、あの輿を自ら囮に供するとは考えにくかった。
にもかかわらず、捨てた。いや——捨てさせた者がいる。義元の矜持を押し退けてでも、あの瞬間に御輿を切り離す判断を通した誰かがいた。奇襲が来ることを予見し、義元すら説き伏せた誰かが。
雪斎か。
太原雪斎。今川の軍師にして政僧。あの男ならば可能だった。奇襲を読み切り、短時間で本陣を動かす。雪斎が生きていれば、起こり得た。
だが、雪斎は五年前に死んだ。
信長は腕を組み、天井を仰いだ。
雪斎は死んだ。義元は、戦場で己の権威を捨てる人物ではない。今川の譜代の重臣に、あれほどの独断を許される男がいたのか。少なくとも、信長の耳には届いていない。
では——誰だ。
何日、同じ問いを巡らせただろう。同じ壁にぶつかり、同じ場所に戻る。
ただ、一つだけ分かったことがある。
今川の軍勢の中に、信長がまだ知らない何かがある。雪斎の残した仕組みなのか、あるいは雪斎に代わる別の知恵なのか。名も顔も分からない。だが、あの戦場には、義元でも重臣でもない、別の意志が確かに働いていた。
思えば、桶狭間の前から気にかかっていた。雪斎が死んでなお、今川は崩れなかった。あの男が消えれば内から乱れると踏んでいたのに、今川はむしろ安定した。何かが、雪斎の穴を埋めている。あの時から感じていた違和感が、桶狭間で確信に変わった。
それだけは、間違いない。
信長は紙を畳み、立ち上がった。障子を引くと、湿った風が顔を撫でた。
庭の向こうに、松の枝が曇天に黒い影を落としている。この城はまだ信長の手の中にある。だが、今川は大高に腰を据え、尾張の東からじわじわと圧をかけてきている。境目の城は既に二つ、今川に寝返った。
家臣たちの焦りは分かる。敵は動いている。なのに主が動かない。その苛立ちは、当然だ。
だが、と信長は思った。
あの桶狭間で、完璧な奇襲がたった一手だけ遅れた。その一手の正体が分からない限り、次も同じことが起きる。
逆に言えば、正体さえ掴めば、次は潰せる。
信長は庭を見下ろした。草の伸びた庭の向こうに、尾張の平野が広がっている。その向こうに、今川がいる。
面白い。
負けたことは口惜しい。首を獲り損ねたことは腸が煮える。だが、それ以上に、あの一手の正体が気にかかる。今川の腹の中に、まだ己の知らぬ何かが潜んでいる。
それを暴いて、叩き潰す。
あるいは——取り込む。
信長の口元が、わずかに歪んだ。敗軍の将の顔ではなかった。獲物を見定めた男の、不敵な笑みだった。
障子の隙間から、梅雨明けの薄い陽が差し込んでいた。




