【第56話】産声
駿府に戻った翌日、僕は氏真様の前に平伏していた。
「……以上が、桶狭間における戦闘の経緯と、荷駄網の運用報告でございます」
氏真様は静かに聴いていた。戦勝の報せ自体は、とうに早馬で届いている。だが、現場にいた人間の口から語られる細部は、書状の文字とはまるで重みが違ったのだろう。
「……御輿を囮にしたとは聞いていたが、本当に間一髪だったのだな」
氏真様は深く息を吐いた。その声には、公式の報告だけでは掴めなかった危機の実感が滲んでいた。
「はい。岡部殿の判断と、彦四郎の進言により、間一髪で……」
「父上の御輿を囮に使うなど、とんでもない話だ」
氏真様は苦笑した。だがそこには、父の無事を心底喜ぶ息子の表情があった。
「だが、それで生き延びたのなら、文句は言えぬな。……ご苦労であった、圭」
勝報を受けた若き当主の顔には安堵があった。だが同時に、父が尾張へ深く入り、駿府を預かる時間が長くなることへの重圧も、確かに滲んでいた。
氏真様は居住まいを正し、改めて僕に命じた。
「父上が尾張に留まる間、駿河と遠江の差配は私が預かる。圭、お前には引き続き後方の仕組み作りを頼みたい。荷駄網の維持と、新たに治める土地の年貢や荷の道の整備だ。お前が得意な仕事だろう」
それは、僕がこの十年間で築いてきた仕事の延長であり、同時に全く新しい領域への踏み出しでもあった。
駿府の家に帰り着いた時、佐夜は門の前に立っていた。
まだほとんど目立たない腹に手を添えて、泣きそうな顔で笑っていた。
「……おかえりなさい」
「ただいま」
僕は佐夜を抱きしめた。佐夜も僕の背中にしがみついて、声を殺して泣いた。
「本当に、帰ってきたのね」
佐夜の声は、責めるでもなく、ただ確かめるように震えていた。
しばらくの間、二人ともそれ以上何も言えなかった。
それから半年の月日が流れた。
桶狭間の泥の匂いが記憶の奥に沈む頃、駿府の風は少しずつ冷たくなっていった。
僕は氏真様の下で、後方の仕組み作りに明け暮れた。荷駄網を応用した物流の整備、降伏した土地の年貢率の設定、新しい宿場の設置計画——地味だが、誰かがやらなければ占領地は回らない。そういう仕事を、一つずつ紙の上で進めていく日々だった。
尾張からは、断片的に戦況が届いた。
今川軍は勢いのまま尾張の東半分を押さえ、織田方の砦がいくつも落ちたという。だが、信長本人は清洲城に健在で、残った兵力を巧みにまとめ、今川軍の補給線を脅かす小規模な反撃を繰り返しているらしい。
桶狭間で大敗を喫してなお、あの男は折れていない。
その報せを聞くたびに、僕の背筋に冷たいものが走った。
(……信長は、まだ終わっていない)
僕の知る年表はもう道標ではなくなった。だが、信長という人間の本質——不屈の意志と、常識を破壊する発想力——は、年表に関係なく存在し続けている。
今川が尾張を完全に平定できるのかどうか。それすら、もう僕には分からなかった。
永禄三年、冬。
「おんぎゃあ! おんぎゃあ!」
障子の向こうから、力強い産声が響き渡る。
僕は居間の畳の上で、祈るように両手を組んだまま固まっていた。
やがて、障子が静かに開き、産婆が汗だくの笑顔を見せた。
「おめでとうございます、圭様。元気な男の子ですよ」
その言葉を聞いた瞬間、全身から一気に力が抜け、僕は崩れ落ちるように畳に額をすりつけた。
「……よかった。本当によかった……っ」
産婆に促され、僕は震える足で奥の部屋へ足を踏み入れた。
布団の中で、佐夜が疲れ切った顔で横たわっている。だが、僕の姿を認めると、彼女はふんわりと柔らかく笑った。
「あんた……」
「佐夜、よく頑張ってくれたね。ありがとう……本当に、ありがとう」
僕は彼女の手を握りしめ、それから、彼女の腕の中で丸くなっている小さな命を覗き込んだ。
しわくちゃで、赤みを帯びた小さな顔。ぎゅっと強く握りしめられた小さな拳。
恐る恐るその手に自分の指を近づけると、赤ん坊は僕の指を力強く握り返してきた。
「っ……!」
胸の奥から、熱いものが込み上げてくる。
僕と佐夜の子供だ。
歴史の教科書には絶対に載っていない、名もなき僕たちの、新しい命。
桶狭間から半年。僕はずっと、自分の行動がどんな結果を引き起こしたのか、答えの出ない問いを抱え続けていた。
岡部の決断を後押ししたのは僕の報告だったのか、それとも歴戦の武将の直感だったのか。彦四郎の進言がなければ義元は死んでいたのか。僕がいなくても歴史は同じように変わっていたのかもしれないし、まったく別の形で変わっていたのかもしれない。
答えは出ない。たぶん、永遠に出ない。
だが、佐夜から受け取った我が子の温もりを感じた時、その答えの出ない問いが、不思議と遠くなっていくのを感じた。
(……ああ、そうか)
僕は、我が子の小さな頬を指の背でそっと撫でた。
歴史がどうなったのかは、もう分からない。分からなくていい。
ただ、この子が生きていくこの国を、少しでもまともにすること。
それだけが、僕にできる唯一の答えだ。
ただ歴史の悲劇から逃げるために、怯えて足掻き続けた十年間は、もう終わった。
これからは、自分の意志で、未来を支える。
「……圭?」
佐夜が、不思議そうに僕の顔を見上げる。
「どうかしたの? 泣きそうな顔をして……」
「いや……なんでもないよ」
僕は涙を拭い、佐夜と我が子に向けて、とびきりの笑顔を作った。
「ただ……この子に恥じない父親にならないといけないなって、そう思っただけだよ」
障子の隙間から、冬の朝陽が差し込んでくる。
尾張ではまだ戦が続いている。信長は折れていない。この先に何が待っているのか、僕には分からない。
だが、この小さな命を抱いた腕だけは、もう震えていなかった。
——第4部(桶狭間編) 完——




