【第55話】歴史との向き合い方
桶狭間の戦いから三日が経った。
今川軍は、負傷者の後送と陣の立て直しを終え、勢いを保ったまま清洲を目指して尾張の中心へと進軍を続けていた。信長の奇襲部隊は大きな損害を受け、清洲城に残された織田の兵力だけで今川の大軍を止めるのは難しくなっていた。重臣たちの間には「このまま一気に尾張を平定すべし」という威勢の良い声が飛び交っていた。
だが、僕の旅は逆方向だった。
「右筆。お前は駿府へ戻れ」
陣を払う朝、岡部元信にそう告げられた時、僕は一瞬、何を言われたのか分からなかった。
「……戻れ、とは」
「此度の戦で、お前が作った荷駄網は十分に働いた。今後の尾張での戦は、軍の小荷駄で進める」
岡部は厳しい顔のまま、しかし声にはどこか柔らかさがあった。
「それに、駿府には御屋形様がおられる。太守様が尾張に留まる間、駿河と遠江の差配は、あの方が担われる。お前の仕組み作りの力が、今一番必要なのはあちらだ」
それは、命令であると同時に、岡部なりの気遣いでもあった。
幕舎で僕の手柄を語りきれなかった負い目があるのか、岡部は視線を一瞬だけ逸らし、ぶっきらぼうに付け加えた。
「……女房も身重なのだろう。武士でもない者が、これ以上前線に留まる理由はない」
安吉さんが腰を痛めていることもあり、僕たちは少人数の護衛とともに東海道を東へ戻ることになった。
彦四郎はそのまま本陣に残り、今後の尾張平定に向けた兵站や帳簿の実務を担うことになった。別れ際、彼は泥の落ちきっていない手で僕の肩をポンと叩いた。
「佐夜殿に元気な子を産んでもらえよ。尾張が落ち着いて駿府に戻ったら、顔を見せに行くからな」
「……ああ。必ず」
本陣へ戻っていく彦四郎の背中を見つめながら、僕は目頭が熱くなるのを堪えた。
荷車を引く馬の手綱を取り、東海道を東へ歩きながら、僕はずっと同じ問いを頭の中で反芻していた。
果たして、僕が歴史を変えてしまったのだろうか。
幕舎で岡部は、「朝から嫌な予感がしていた」と言った。あの太鼓持ちの武将に調子を合わせた言葉だと分かっていたが、それが全くの嘘だとも思えなかった。歴戦の武将には、理屈では説明できない勘がある。僕の報告がなくても、岡部は何かを感じ取っていたのかもしれない。
そして、御輿を囮にしたのは彦四郎の進言だ。義元様ご自身が、御輿を捨てる決断を下した。
僕が作った「仕組み」が彼らの背中を押したのか。それとも、彼ら自身の力が歴史を切り拓いたのか。
いくら考えても、答えなど出るはずがなかった。
「……なぁ、安吉さん」
荷台に横になった安吉さんに、僕はぽつりとこぼした。
「もし、僕たちが今までやってきたことが……全部、取り返しのつかない大間違いだったとしたら、どうする?」
安吉さんは腰を庇いながら身を起こし、不思議そうに首を傾げた。
「大間違い、とは?」
「例えば……僕が良かれと思って作った荷駄網や、みんなで話し合って決めたことが、めぐりめぐって誰かの運命を大きく狂わせてしまったとしたら」
安吉さんは少しの間黙考し、やがて太い腕を組んで豪快に笑った。
「そんなもん、今更じゃねえか。圭様と出会う前の俺なんざ、街道で小銭を稼ぐだけのしがない行商人だったんだ。それが今じゃ馬借どもを束ねて、大名の荷駄を差配してる。運命なんぞ、とっくに狂っちまってるさ」
「それは……」
「世の中、何が正しくて何が間違ってるかなんて、誰にも分かりゃしねえ。だがな、圭様。俺ぁ、あんたが作った今の暮らしが、わりと気に入ってるんだ。腰は痛めたが、駿府に帰れば女房に自慢できる土産話もできたしな」
その言葉に、僕は思わず小さく笑ってしまった。
運命なんて、とっくに狂っている——それはそうだ。この時代に来てしまった時点で、僕の人生はとうに規格外なのだ。歴史を変えたかどうかなんて、そもそも問いの立て方が間違っていたのかもしれない。
僕が歴史を変えたのかどうか。そんな神様のような視点で世界を見るのは、もうやめよう。
事実は一つだけだ。
僕の知る歴史では、桶狭間で義元が死に、信長が天下へ駆け上がるはずだった。だが義元は生きている。
これから先、誰が天下を獲るのか、この国がどうなっていくのか——僕の知る年表は、もう道標ではなくなった。
だが——。
不意に、出陣の前夜の佐夜の顔が浮かんだ。
まだ目立たない腹を庇いながら、玄関先で僕の背中を叩いてくれた、目を赤くしたままの気丈な笑顔。
(……そうだ。僕にはもう、帰る場所があるんだ)
歴史がどうなろうと。僕の足掻きがどんな結果を引き起こしたのだとしても。
駿府には、僕を待っている妻がいて、これから生まれてくる新しい命がある。
未知の歴史という荒波の中で、自分がどれだけ無力でちっぽけな存在か、嫌というほど思い知らされた。
それでも、僕は生きていくしかない。彼らを守るために、泥水をすすってでも。
「……うん。そうだね、安吉さん。分からないからこそ……もがくしかないんだよね」
「おお、その意気だ。駿府に帰ったら、まずは美味い飯でも食おうぜ! この腰の痛みを治す湯治もしたいしな!」
手綱を引きながら見上げる五月の空は、どこまでも青く澄み渡っていた。
今川の軍勢は西へ、僕と安吉さんは東へ。同じ勝利の後なのに、向かう先はまるで違った。
だが、それでいいのだと思った。僕の戦場は、ここではない。駿府で、仕組みを作ることだ。




