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【第54話】安吉の行方

「安吉さん! どこにいるんだ、安吉さん!」


雨が完全に上がり、血と泥の匂いが立ち込める桶狭間の谷間に、僕の嗄れた声が響いていた。

周囲には、崩壊した大八車の残骸と、今川と織田の兵士たちが入り乱れて倒れている。勝鬨(かちどき)を上げる本陣の熱狂から外れたこの後方陣地は、馬の暴走によって完全に蹂躙され、凄惨な有様だった。


「圭、こっちだ! この車の下を掘り返すぞ!」

足を引きずり、額から流れる血を袖で拭いながらも、彦四郎が壊れた荷駄を退かしている。腕力はないはずの彼が、諦めずに折れた木を動かそうと奮闘していた。僕も慌てて駆け寄り、爪に泥を詰めながら必死に手伝った。

しかし、その下から出てきたのは見知らぬ人足の亡骸だった。


(くそっ……!)

焦燥感が胸を焼く。安吉さんは、僕をかばって暴走する馬の波に飲まれたのだ。彼が馬借たちを束ねてくれなければ、特急の荷駄網は何一つ形にならなかった。彼がいなければ、僕はここまで生き延びることすらできなかった。


「……諦めるな。あの図体だ、そう簡単には死なん」

泥まみれの彦四郎が、僕の肩を強く叩いた。文官でありながら戦場の過酷な混乱をくぐり抜け、こうして共に生還してくれたことだけが今の唯一の救いだった。


「おーい、そこのお二人さんや」


不意に、少し離れた土手の下から、くぐもった低い声が響いた。

弾かれたように振り返る。

ぬかるみに半身を埋め、ひしゃげた大きな籠を盾にするようにしてうずくまっている巨漢——。


「安吉さん……!」

「へへっ……馬に蹴っ飛ばされて、腰を痛めちまった。だがまぁ、五体満足だ」

安吉さんは顔面を泥だらけにしながら、ニヤリと笑った。


僕は泥水の中に飛び込むようにして駆け寄り、彼の大きな体にすがりついた。彦四郎も破顔し、「この大うつけが、世話を焼かせるな!」と彼の背中を力いっぱい叩いた。安吉さんが「いってえ!」と悲鳴を上げる。

僕は泥まみれになりながら、ただ子供のように泣きじゃくった。


彼らは生きている。

歴史の前提が崩壊するという圧倒的な恐怖の中で、この二人の温かい体温だけが、僕を現実に繋ぎ止めていた。



それから数刻後。

僕は泥だらけの姿のまま、今川本陣の急造の幕舎の末席に平伏していた。壊滅状態となった荷駄陣の被害報告を上げるため、右筆の筆頭として呼ばれたのだ。

上座には、泥にまみれた甲冑姿の今川義元が座し、その御前には岡部元信や三浦正俊ら重臣たちが控えている。


「……皆の者、大儀であった。此度の奇襲、あと四半刻(約三十分)本陣の移動が遅れておれば、わしの首は織田の手に落ちておっただろう」

義元様が静かに口を開く。

「岡部よ。あの豪雨と泥濘の中で、よくぞ独断で陣を動かしてくれた」

岡部は深く頭を下げた。

「恐れ入りまする。しかし、私の手柄ばかりではございませぬ。実は、あの時私に織田の接近を最初に知らせたのは——」


そこまで言いかけた時だった。

「岡部殿のご慧眼、まことに恐れ入りまする!」

岡部の言葉を遮るように、斜め後ろに控えていた武将の一人が声を上げた。今回の勝利で一躍時の人となった岡部に取り入ろうとしているのが、誰の目にも明らかだった。

「あの豪雨の中、斥候でさえ敵を見失っておったというのに、岡部殿だけが敵の動きを見抜かれた! まさに歴戦の猛将の嗅覚でございますな!」


幕舎の中に、追従の声がいくつか重なった。

岡部は一瞬、口を噤んだ。

そして——ほんの一瞬だけ、末席に平伏している僕の方をチラリと見た。

その目には、明らかなきまり悪さがあった。旧知の右筆の手柄を語ろうとしていたのに、横から持ち上げられて引っ込みがつかなくなっている。


「……儂は今朝から、どうにも嫌な予感がしておった」

岡部は、どこか取ってつけたような口調でそう続けた。

「そこへ馬借の報せが届き、その予感を後押ししてくれたのだ。それと、御輿が泥で動かぬと分かった時、『御輿を囮にせよ』と叫んだのは朝比奈の若武者であった。彼の進言がなければ、太守様の脱出は間に合わなんだ」


彦四郎の名は出した。だが、荷駄網のこと——つまり僕のことは、最後まで語られなかった。

僕は冷や汗を流しながら頭を低くした。


その時、三浦正俊の視線を感じた。

顔を上げる勇気はなかったが、横目で見ると、三浦は僕の方をじっと見据えていた。この賢い重臣は、岡部が何を言いかけて飲み込んだのか、正確に察しているようだった。何か言いたそうに口を開きかけたが、この場の空気を読んだのか、結局何も言わずに視線を戻した。


僕は小さく息を呑んだ。

(岡部様は……僕のことを言おうとしてくれた。でも、言えなかった)

太鼓持ちの武将が作った空気の中で、「実は右筆の情報網のおかげでした」とは言えなくなってしまったのだ。

結果として、僕の関与は歴史の表舞台から消えた。誰も知らない。僕が作った荷駄網が最初の一報を届けたことを。

そしてそれは——僕にとっても救いだった。「すべては僕のせいだ」という重荷が、少しだけ軽くなったような気がした。


「それに加え、雪斎様を失って学んだことです」

岡部が力強く言い切る。

「雪斎様が亡くなられた後、決裁が滞り、国が止まりかけたあの頃——お一人の頭を待っていては間に合わぬと、我らは骨身に染みて知りました。もし私が太守様の裁可を待つ古い頭のままであれば、あの即断即決の陣形移動は不可能でした。報せが早く上がる仕組みと、現場の者が己の責で決める覚悟……そして武将としての直感。それが全て噛み合ったからこそ、我らは致命の刃を回避できたのです」


幕舎の中に、深い感嘆の溜息が漏れた。

義元様は目を細め、やがて深く頷いた。


「……雪斎の抜けた穴を、そなたらは己で埋めておったか」


重臣たちが静かに頭を下げる中、僕は一人、微かに震える手を握りしめていた。

僕が歴史を壊したのか。それとも、彼ら自身の力が歴史を切り拓いたのか。

その境界線は、泥水のように混ざり合い、もう誰にも分からなくなっていた。


やがて、場が一段落ち、重臣たちが口をつぐんだ時だった。

義元様が、誰に向けるでもなく、独り言のようにつぶやいた。


「……わしは、寡兵がいかに大軍に抗うかを、一度も考えたことがなかった」


その声は、主君としての威厳ではなく、一人の人間が自分の盲点を初めて自覚した時の、静かな重さを帯びていた。

「二万五千の兵がある。地の利も得た。それで十分だと、わしは思っておった。だが、そうではなかった。数の上に胡座をかいていたのは、わし自身であった」


末席で平伏したまま、僕は息を殺してその言葉を聴いていた。

義元様は僕の方を見ていなかった。岡部や三浦に向けてでもなく、ただ虚空を見つめていた。

十年の間、僕が間近で見てきた義元様は、後の世で語られるような愚かな人ではなかった。常に冷静で、雪斎様の知恵を受け継ごうとする聡明な主君だった。自らの過ちを、重臣たちの前で認められる——それは、この人の強さだった。


戦場を包んでいた雨雲が完全に去り、桶狭間の谷間に夕暮れの光が差し込み始めていた。

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