【第53話】何もしていないのに
「勝った! 我らの勝利だ!」
「太守様、万歳!」
雨上がりの生ぬるい風が、血と泥の入り混じった異臭を運んでくる。
狂喜乱舞する今川兵たちの勝鬨が、桶狭間の谷間を揺らしていた。彼らにとって、泥水の中で頭を抱えて震えている僕のような小男は、勝利の熱狂の中で目に入らない「風景の一部」でしかなかった。
泥に膝をついたまま、僕はただ周囲を見渡した。
至る所に織田の旗印が泥に塗れて落ちている。無数に思えるほどの織田の兵士たちが、丘の斜面で今川の反撃に遭い、泥の中に倒れていた。
(僕のせいで、歴史が壊れた……?)
泥の中にへたり込み、濁った水たまりに映る自分の顔を見つめる。
僕は歴史を変えようとなんてしなかった。ただ、決められた悲劇から逃げ出したかっただけだ。義元様の死という「絶対の歴史」を前に、自分のような凡人が抗えるはずがないと知っていたから。
だから、直接的な軍事には一切口出しせず、ただひたすらに兵糧を回し、逃亡用の荷駄網を作り、安全圏へ逃げるための準備だけをしてきた。
僕は、歴史に対して「何もしていない」はずだった。
……本当に、そうか?
泥水に映る自分の顔が、歪んだ。
頭の奥底で、一つの恐ろしい想像が、冷たい符合のように組み合わさっていく。
信長の強襲が間一髪で空振りに終わったのは、岡部元信が危険を察知して本陣の位置替えを号令したからだ。
だが、なぜあの豪雨の中で、岡部は敵の接近に気づけたのか。
あの時、僕の荷駄網の馬借が集積所に飛び込んできた。その報せを本陣で告げたのは彦四郎で、僕は最後まで黙っていた。ただ岡部に問われて、彦四郎と同じ意見だと答えただけだ。
もし、僕の荷駄網が「異常な早さ」で報せを上げていなければ。あるいは、岡部が馬借の報せ以外にも何らかの手がかりを得ていて、複合的に判断しただけなのかもしれない。
そして、御輿が泥で動かなかった時、「御輿を囮にせよ」と叫んだのは僕じゃない。彦四郎だ。
確かめる術など、どこにもない。
だが、あの一言が岡部の背中を押す「最後の一押し」になってしまったのだとしたら?
「あっ……」
喉から、ひゅっと空気が漏れた。
僕の恐怖が。僕の逃亡への執着が。僕が良かれと思って作った備えが、あの折に本陣を動かすきっかけになってしまったのだとしたら。
だが、義元様を救ったのはあの一言だけじゃない。岡部の即断も、彦四郎の囮の進言も、義元様自身が御輿を捨てる決断をしたことも——そのどれ一つが欠けても、結果は変わっていたはずだ。
僕は「何もしなかった」から歴史のうねりに巻き込まれたのではない。僕の浅ましい足掻きそのものが、この日本史の巨大な分岐点をへし折ってしまったのではないか。
「僕が……僕が、変えてしまったのか……?」
震える両手を顔の前にかざす。
その手には泥しかついていない。僕は誰一人、直接手にかけてはいない。刀すら抜いていない。
にもかかわらず、この窪地に転がる何千という亡骸と、これから訪れる「誰も知らない歴史」の重みが、すべて僕の両腕にのしかかってくるような錯覚に襲われた。
何もしていないのに。
誰も殺していないのに。
ただ、怯えて逃げようとしただけなのに。
「……圭っ!」
絶望に押し潰されそうになったその時、不意に背後から声が響いた。
弾かれたように振り返る。
最初、誰だか分からなかった。
全身が泥で染まり、倒木から折れた枝を杖代わりにして足を引きずりながら歩いてくる男。衣服のあちこちが破れ、倒れた木で切ったのか、額には血がこびりついている。顔の輪郭すら、泥で変わっていた。
それでも、その声だけは聞き間違えようがなかった。
「……彦四郎……?」
僕は跳ね起きるように駆け寄り、泥まみれの親友の体を力一杯抱きしめた。
「無事だったか、圭! 良かった……生きてて、本当によかった!」
彦四郎も泥だらけの顔をくしゃくしゃにして笑い、僕の背中を強く叩いた。
「お前こそ……! 馬が暴走してはぐれたのに、どうやって……」
「暴走した馬から逃げようとして、俺も斜面を転がり落ちたんだ。下はひどい泥濘で、しばらく動けなかった。……一緒にいた荷駄方の連中も、何人かはぐれたきり戻ってこない。俺は運が良かっただけだ」
彦四郎の声が一瞬だけ低く震えた。だがすぐに笑みを取り戻し、僕の頭をぐしゃぐしゃと乱暴に撫でた。
あの歓声の中で抱いた安堵は、嘘ではなかった。
温かい体温に触れ、僕の目から堪えきれずに涙が溢れ出す。だが、ふと彼の背後を見て、僕は息を呑んだ。
「彦四郎……安吉さんは?」
僕の問いに、彦四郎の笑顔が少しだけ翳った。
「……分からない。後方の荷駄陣は完全に崩壊していて、まだ行方が掴めていないんだ」
胸の奥が冷たくなる。馬の波に飲まれたあの大きな背中が、泥に沈んでいる光景が頭をよぎった。まだ、手放しで喜べる状況ではなかった。
歴史は壊れた。僕たちは、先の見えない暗闇の海へと放り出された。
これから先、この日本がどうなってしまうのか、僕には何の知識もない。
そして、僕の逃亡の備えが引き起こした混乱の中で、安吉さんの生死も未だに分からない。
「……探しに行こう。絶対に、生きているはずだ」
泥水の中で涙を拭い、僕は顔を上げた。
足はまだ震えていた。立ち上がった瞬間、膝が笑い、彦四郎に肩を貸されなければ歩けなかった。
歴史の濁流からただ逃げるだけの時間は、もう終わった。
これからは、この未知の歴史の中で、僕自身の手で大切な人たちを守り抜かなければならないのだ。




