【第52話】勝って、しまった
逃げ惑う人波と荒れ狂う馬の群れに踏み潰されそうになりながら、僕は谷底近くに転がっていた壊れた大八車の下へと這い込んだ。
駿府に残してきた佐夜と、これから生まれてくる子供の顔が頭をよぎる。
(死にたくない……死ぬわけにはいかない……!)
傍らに落ちていた骸の胴丸(簡素な甲冑)を引き寄せ、泥水に塗れるのも構わず、震える手で無理やり身に纏った。気休めでもいい、少しでも刃から身を守りたかった。
全身が泥に塗れ、雨が目も口も塞いで息をするのすら苦しい。
丘の上から降ってくる音が、変わった。
勝ち鬨に転じるはずの怒号に、戸惑いのようなものが混じっている。
織田は御輿へ殺到したはずだ。だが、あの輿は空だ。
彦四郎の進言が通ったなら、義元は旗本に囲まれて丘の裏手へ抜けている。僕が斜面を落ちる直前に見たのは、そこまでだった。
殺到した先に残っているのは、空の御輿と、囮として残った一握りの兵だけになる。
丘の上から流れ落ちてくる怒号と悲鳴が、谷底にいる僕の耳にも届く。
「ひっ……ああぁっ!」
すぐ近くでも、丘から流れ落ちてきた今川の兵士と追撃してきた織田の兵士が、泥まみれになって槍で突き合っている。
僕は両手で耳を塞ぎ、目を強く閉じた。歯の根が合わず、全身が激しく痙攣している。
怖い。死にたくない。
そして何より、泥の斜面ではぐれた彦四郎や、馬の波に飲まれた安吉さんの無事を祈ることしかできない自分が、ひどく惨めで恐ろしかった。
どれほどの時間が経ったのだろうか。
永遠にも思える地獄の中で、僕はただ震え続けていた。
やがて、雨が止んだ。
天が裂けたかのような豪雨が、嘘のように引いていく。雲が割れ、五月の陽光が桶狭間の谷底に降り注いだ。泥水は脛まで這い上がったままで、甲冑の隙間に入り込んだ雨が肌を刺している。
同時に、丘の上を支配していた怒号と悲鳴の質が、明確に変わった。
空の御輿に殺到し、主君の首がないと知った織田軍の動揺は致命的だった。
雨が弱まるにつれ、視界を取り戻した周囲の今川勢がようやく敵味方を見分け始める。義元を討ち取れず、一度足を止められた織田の二千は、もはや奇襲の刃ではなく、二万五千の軍勢の海に浮かぶ絶望的な孤島でしかなかった。
少数の強襲にすべてを賭けていた織田軍の勢いが完全に止まり、数に勝る今川軍が圧倒的な暴力で押し返し始めたのだ。
そして、歓声が上がった。
最初はどこか遠い場所で。次に左の尾根から。続いて右から。そして足元から、地鳴りのように、谷間を埋め尽くした。
「織田勢、退いたぞ!」
「太守様のお命、ご無事にござる!」
「勝った——勝ったぞおおお!」
兵たちが槍を空に突き上げ、絶叫している。駆け寄り、抱き合い、泥だらけの顔を歪めて嗚咽する者。膝から崩れ落ち、両手で泥を握りしめたまま天を仰いで泣いている若い足軽。隣では、白髪交じりの古参が念仏を唱えながら額を地面に擦りつけていた。
死線を越えた人間たちの、理屈では制御できない感情の奔流だった。
僕の耳が、遠くなっていた。
歓声が、水の底から聞こえるようだった。大八車の下から這い出した僕の目が、勝手に一点を追っている。
撤退していく織田勢の旗印。木瓜の紋。あの旗の下に、あの男がいる。
生きている。討ち取れなかった。
いや、違う。問題はそこじゃない。
……勝って、しまった。
膝が笑っていた。泥のせいじゃない。寒さのせいでもない。
手を見た。指先が白い。泥に落ちていた誰かの槍を、いつの間にか握りしめていた。柄に、爪の跡がついていた。
今川義元は、桶狭間で死ななかった。
(……よかった。義元様が生きているなら、彦四郎も、みんな助かる)
勝利の事実に、僕は無意識のうちにそう安堵していた。これで親友たちは死なない。
だが、その安堵は一瞬で漆黒の恐怖に塗り潰された。
織田信長は、どうなる。楽市楽座は。兵農分離は。天下布武は。
この先の歴史は——僕にはもう、何一つ分からない。
吐き気がこみ上げた。口を手で押さえ、歯を食いしばる。周囲は歓喜の渦で、誰も僕を見ていない。勝利に酔い痴れた人々の間で、僕だけが壊れかけていた。
「おい」
肩を叩かれた。顔を上げると、泥と返り血で汚れた名もなき武者が、目を細めて笑っていた。
「勝ったのだぞ。なぜそのような顔をしておる」
笑えるわけがなかった。この歓声の意味を、この勝利が何を壊したのかを、この場で理解しているのは僕だけだ。
声が出なかった。唇が動いたが、音にならなかった。
武者は首を傾げ、やがて「戦の興奮で腑が据わらぬか」と勝手に納得して、笑いながら去っていった。
僕はその場にしゃがみ込んだ。泥の中に手をついて、額を腕に押し当てた。
歓声が、まだ鳴り止まない。




