【第51話】濁流
「御輿を移せ! 急げ!」
泥濘の丘陵で、岡部元信の号令が幾度もこだました。
岡部の号令による位置替えの報せは、奥で休息を取っていた今川義元の御前にも即座に届いていた。義元は一瞬いぶかしんだものの、あの厳格な岡部が全責任を負うとまで言い切った覚悟を重く見たのだろう。自らも周囲の旗本たちへ警戒と移動を命じたという。
丘の上が、一斉に動き出した。
そして、どこも動かなくなった。
二万五千が同じ方向へ向かおうとしている。荷駄の列が先に崩れた。馬を引く者が向きを変えようとして、後ろから来た兵とぶつかる。命令が三つも四つも重なって飛び、どれに従えばいいのか誰にも分からない。泥に足を取られて倒れた者の上を、別の者が踏んでいく。
三歩先の味方の背中すら見えない。雨が目を塞ぎ、怒号は雨音に呑まれて意味を失った。誰かの肘が僕の顎に当たり、誰かの草履が僕の足の甲を踏んだ。
帳面で見れば、ただの詰まりだ。一日に通せる荷の量を超えたときと、同じことが起きている。
違うのは、ここでは詰まった側が死ぬということだった。
その時、雨音の向こうに別の音が混じった。
下からではない。
上からだった。
何千の足が同時に泥を踏む音は、遠い雷に似ていた。それが一定の速さで、こちらへ下ってくる。
尾根を、越えてきている。
僕の網が拾った足跡は、この音の正体だった。
「上だ! 上から来るぞ!」
叫んだのは一人ではなかった。同じ言葉が、丘のあちこちで別々に上がった。
詰まっていた軍勢が、そこで壊れた。
前へ進もうとしていた者が振り返り、振り返った者が後ろから押される。槍の柄がぶつかり、馬が棒立ちになる。どこへ逃げればいいのか誰も知らないまま、全員が別の方向へ動こうとしている。
僕は足音の間隔を数えようとした。斜面の長さと、この速さ。荷を運ぶときと同じで、どれだけで着くかは計算できる。
数え始めて、すぐやめた。
指を折るより早く、音が近くなっていた。
「御輿が……御輿が動きませぬ!」
悲鳴のような声が、雨を裂いて届いた。
義元の御輿は、大軍の権威を示すにふさわしい壮麗な造りだった。だがそれは、この泥濘の急斜面では致命的な重さとなった。
八人の肩に載った漆黒の箱が、泥の中で傾いたまま止まっている。担ぎ手の一人が膝から崩れ、隣の者が慌てて支えた。誰かが轅に肩を入れようとして、泥に滑り、顔から倒れた。
「太守様をお降ろしして馬に乗せよ!」
誰かが叫んだ。だが周囲の旗本たちが躊躇する。豪雨の中で主君を御輿から降ろし、徒歩で移動させるなど前代未聞だ。
「圭! 俺から離れるな!」
混乱の渦の中で、彦四郎が僕の手首を強く握りしめた。反対側では、大柄な安吉さんが人波を強引に掻き分けながら、僕たちの逃げ道を確保してくれている。
だが彦四郎の顔は、僕のことだけでなく、御輿の前で立ち往生する旗本たちを見据えていた。
「敵襲! 織田勢がもうそこまで来ておるぞ!」
「本陣が抜かれる……!」
斜面の下から、悲鳴とも怒号ともつかない声が幾重にも重なって近づいてきた。先に逃げた者が、下で詰まっている。
上から来る。下は塞がっている。
逃げ場がどこにもないのだと、そこで分かった。
旗本たちが槍を握り直す。だが御輿は、まだ一歩も動いていない。
彦四郎は、数えるのをやめた僕より早く、答えを出していた。
「……駄目だ。このままでは間に合わん」
彦四郎が僕の手首を離した。
「彦四郎……?」
彦四郎は泥を蹴って御輿の前へ走り出た。旗本たちを掻き分け、岡部の前へ。膝をつく間も惜しいという動きだった。
「岡部様! 御輿を捨ててください!」
その声が、豪雨を突き破るように響いた。
「旗印と御輿をそのまま残し、数名の兵に影武者を演じさせてください! 太守様は徒歩か馬で、丘の裏手から別路へ! 織田は間違いなく御輿に殺到します——その隙に、本隊を逃がすのです!」
その場が凍りついた。
一介の朝比奈家の若者が、義元の御輿を「囮に捨てろ」と進言している。それは、将軍家より賜った証を、泥の中に打ち捨てよと言うに等しかった。
「たわけたことを申すな!」
年配の旗本が声を荒げた。
「足利の血を引く御方が、まるで敗残の雑兵のように——」
「今、太守様のお命よりも大事な示しが、どこにある!」
彦四郎が怒鳴り返した。争う声は、次の瞬間には上から降ってくる足音に呑まれた。
義元は、答えなかった。
御簾の奥で、微動だにしない。誰も、その横顔をうかがい知ることができなかった。
「……太守様」
岡部が膝を進めた。
「戦場で最善を判じるのに、身分は問わぬ。それが雪斎様の教えであったはずです。この若者の申すこと、理には適っております」
彼は深く頭を下げた。
「ですが、これは某が決められることではございませぬ。太守様御自らが、お決めくださいませ」
「……この輿は」
低く、独り言のような声だった。
「将軍家に何年頭を下げ続けて、ようやく賜ったものか。皆、知っておろう」
誰も答えなかった。答えられなかった。
背後の悲鳴が、また近くなった。
上の足音は、もう雷には聞こえない。地面そのものが下りてくる音だった。
義元は、輿の縁を、指先でゆっくりと撫でた。
そして、次の瞬間には離れていた。
「……証を守って、ここで討たれるわけにはいかん」
義元は御簾を上げ、豪雨の中へ自ら足を踏み出した。振り返ることなく、泥だらけの地面に草履を沈めた。
「岡部よ、頼んだぞ」
その一言で、空気が変わった。
旗本たちが即座に動き出す。義元を囲んで丘の裏手へ。空の御輿には旗印をそのまま掲げ、数名の兵が影武者のように中に残った。
「安吉! 圭を頼む!」
彦四郎が、こちらへ駆け寄りながら叫んだ。
「殿は俺の役目じゃない。生きて荷駄を回す方が俺の仕事だ! 太守様の退却に合わせて、俺たちも裏手へ下るぞ!」
「彦四郎……!」
「ぼやぼやするな! ここは武辺者に任せて逃げるぞ!」
彦四郎は泥にまみれながら、目だけは逃げる先の道を追っていた。
「圭様、走るぞ!」
安吉さんが僕の腕を掴む。
僕たち三人は本隊の退却に混じり、必死で丘の裏手の斜面を駆け下り始めた。
だが、泥の斜面は想像を絶するほど滑りやすかった。
加えて、豪雨と人波に怯えた数頭の駄馬が、いななきながら斜面を暴走してきた。
「危ないっ!」
安吉さんの叫び声が響く。それを避けようと足を踏み出した瞬間、泥に足が取られ、僕は一瞬にして体の制御を失った。
「圭——!」
こちらへ伸びた彦四郎の手と声が、馬の群れと雨音に分断された。
「うわあっ!」
泥水の濁流に体ごと流され、転がり、滑り、谷底の方向へと引きずり込まれていく。上も下も分からない。視界が泥で潰れる。必死に何かを掴もうと手を伸ばしたが、指が捉えるのは泥だけだった。
どれだけ滑り落ちたのだろうか。
ようやく体が止まった時、僕は丘陵のはるか下、谷底近くの平地にいた。
直後、丘の上から鬨の声が響いた。
——ドォォン!!
地が鳴った。そして、天を裂くような怒号。
「かかれぇぇぇっ!!」
「敵の首魁は今川義元! 本陣を突け!!」
丘の上で、鉄と鉄がぶつかる音が始まった。
一続きの音ではなかった。一つ一つが別の場所で鳴り、重なり、途切れ、また鳴る。その合間に人の声が混じる。言葉ではない声だった。
雨が斜面を流れ落ちてくる。その水の色が、少しずつ変わっていくのが谷底からでも分かった。
僕は倒れ伏したまま、その音を聞いていた。
やがて、丘の上から馬の群れが泥の斜面をなだれ落ちてきた。
乱戦の余波が荷駄陣にまで及び、繋がれていた何十頭もの馬が、鬨の声と血の匂いに完全なパニックを起こしていたのだ。
「圭様! 手を!」
安吉さんが腕を伸ばした。
僕も、その温かく太い腕を掴もうと指を伸ばした。
あと少し。あと指数本分で、届く――。
だが、僕たちの間に、パニックを起こした馬の巨体が泥を跳ね上げながら割り込んだ。
「ぐあっ!」
安吉さんが馬の波に弾き飛ばされ、人波の中へあっという間に消えていった。
「安吉さん!!」
僕は泥の中に突き飛ばされ、全身を冷たい泥水に浸した。
周囲を見渡しても、血と泥にまみれた足、足、足の波しか見えない。彦四郎もいない。安吉さんもいない。
網は、今川の本陣を動かした。
だが、僕が動かしたかったのは本陣ではない。
顔に叩きつける雨なのか、自分の涙なのか、もう分からない。




