【第50話】豪雨、そして報せ
五月十九日、正午過ぎ。
空を覆う分厚い黒雲が、まるで昼間を夜に変えるように尾張の地を沈めた。
直後、視界を真っ白に染め上げるほどの豪雨が、桶狭間の丘陵に布陣した今川本陣に叩きつけられた。
「凄まじい雨だな……! これでは、一間先も見えんぞ!」
彦四郎が兜の庇から滴る水を拭いながら、大声で怒鳴った。
陣幕は強風に煽られて大きく孕み、二万五千の兵が泥濘の中で身を寄せ合って雨宿りをしている。祝賀ムードだった陣中も、このバケツをひっくり返したような豪雨の前では沈黙するしかなかった。
(来た……)
僕は帳簿を雨除けの下へ押し込んだ。紐を結ぶ指が、二度すべった。
この雨の中、織田信長の本隊が音もなくこの丘陵へと迫っているはずだ。
その時だった。
泥だらけの蓑を羽織った男が、ただならぬ勢いで集積所の裏手から駆け込んできた。安吉さんの下で大高への道を回している馬借だ。
「旦那! 荷が、荷が戻ってきちまった!」
安吉さんが荷を下ろす手を止めた。
「戻ってきたァ? 大高の受け渡しはどうした」
「それが、道が塞がってて通れねえんです! 兵で、いっぱいで」
男は蓑から水を垂らしながら、息を乱していた。
「うちの荷が通る道じゃねえ、山裾の細いほうですよ。そこを、ぞろぞろと。草が薙ぎ倒されて、ぬかるみに足跡がびっしり残ってて。何百どころじゃねえ」
「どこの兵だ。旗は」
「分かりません。雨で何も見えねえ。でも、こっちへ来る向きじゃねえんです。あの道を辿った先は——」
男は指を上げた。雨の向こう、本陣の据わるこの丘の、さらに上を指した。
「あっちですよ」
男の指した先を、目で追った。
本陣のある丘より高い、北の尾根筋。
逃げるために作った網だった。
それが、逃げる理由のほうを掴んできた。
信長がこの豪雨に乗じて攻めてくること自体は、僕の知る歴史と重なる。だが、その正確な進路までは知らない。知らなかったはずのものを、僕の網が埋めてしまった。
「尾根を越えてくるつもりか……? ばかな。この豪雨の中、山を登ってくる軍勢など……」
馬借の話を横で聞いていた彦四郎が、呆気にとられたようにつぶやいた。だが次の瞬間、兵站の実務を知る者としての直感が彼の顔を凍らせた。
「……待て。この雨では、見えてから構えても間に合わん。上から来られたら、弓を並べる刻もないぞ」
「圭様、ただ事じゃありませんぜ! 本陣の大将に知らせねえと!」
安吉さんが叫ぶ。
「だ、駄目だ……」
僕は首を横に振った。兵站を回すことと、義元公の死そのものを防ぐことは次元が違う。ここで本陣へ報告すれば、僕は本当に歴史の中心に手を突っ込むことになる。僕がすべきなのは、逃げることだけだ。
「何を言っている! お前が作った網からの報告だろうが! 行くぞ!」
逡巡する僕の腕を、彦四郎が強引に掴んで引っ張り上げた。
豪雨と泥にまみれながら、彦四郎に引きずられて丘を登る。
途中、本陣の中央に据えられた輿が雨の中に見えた。漆黒に朱の縁取り。駿府で見送った、あの輿だ。雨に打たれて、朱の縁だけが濡れて光っている。
家督は二年前に氏真様へ渡り、駿府の館で御屋形様と呼ばれるのは氏真様だ。だが軍を率いるのは今も義元公で、陣中で太守様と呼ばれるのは、あの輿の主のほうだった。屋形の名は譲っても、兵を動かす者は譲っていない。
本陣の天幕へ駆け込むと、そこには諸将が集まり、苛立たしげに雨宿りをしていた。
「なんだ貴様らは! 右筆風情が本陣に何用か!」
怒声が飛んだ。
僕は口を開かなかった。
「朝比奈家中、彦四郎にございます!」
代わりに、彦四郎が前へ出た。
「荷駄網の馬借からの報せです。大高へ向かった荷が、道を塞がれて戻りました。山裾の細い道を、数え切れぬほどの兵が通った跡があると。その道の先は、この本陣より高い北の尾根筋にございます!」
天幕の中が、一瞬静まった。
直後、嘲笑が湧き起こった。
「馬鹿馬鹿しい! この豪雨の中で山を越えるなど正気の沙汰ではない!」
「我らは高台を押さえておるのだぞ! 商人の作り話に踊らされて何とする!」
「荷駄方が戦を語るか。算盤でも弾いておれ」
彦四郎の耳が赤くなっていた。それでもまだ言い返そうと口を開きかけている。
僕はその袖を引いた。
「……もういい。行こう」
伝わらなかった。それでいい。伝わらなければ、僕は何もしなかったことになる。
彦四郎の腕を引いて、天幕の入口へ向かった。
「——右筆」
背中に声がかかった。
床几に腰掛けた一人の重臣が、僕を見ていた。
岡部元信。
かつて駿府の館で僕の提案した「合議制」を真っ向から否定した猛将だが、同時に、安倍川の餅を分けてくれた人の良い素顔を持つ旧知の武将だ。
「その網を敷いたのは、お主だと聞いた」
「……はい」
「では訊く」
岡部は僕から目を離さなかった。
「お主は、どう見ておる」
雨音が、遠くなった。
違うと言えばいい。馬借の思い違いです、雨で足跡を見誤ったのでしょう、と。そう言って天幕を出れば、何も起きない。義元公は僕の知る通りに死に、僕は彦四郎を連れて裏道の馬に飛び乗る。決めた通りになる。
一言だ。一言で、済む。
岡部は急かさなかった。ただ待っていた。安倍川の餅を分けてくれた時と同じ、こちらが言い終わるまで口を挟まない待ち方だった。
「……彦四郎と、同じ意見です」
嘘をつけばよかった。つけなかった。
訊かれて、否と言えなかった。それだけのことだ。それだけのことで、線を越えた。
岡部は、しばらく僕の顔を見ていた。
それから床几を鳴らして立ち上がった。
「……雪斎様がご健在であれば、これほどの報告、誰に問うまでもなく御自ら即断されたであろうな」
彼は周囲の武将たちを睥睨した。
「だが、今は違う。我らで判じ、我らで動かねばならんのだ」
「各隊へ伝令!!」
岡部の怒号が、本陣の雨音を切り裂いた。
「直ちに本陣の位置を替えよ! 太守様の御輿を丘の反対側へ移すのだ! 尾根筋に向けて弓と槍を構えさせろ!」
「お、岡部殿! 馬借の戯言で太守様の本陣を動かすなど、徒労に終わればどう責任を……」
「万が一の空振りならば、すべての責任は儂が負う! 急げ!!」
歴戦の重臣の覇気に押され、今川の本陣が、豪雨の中で重い腰を上げ始めた。
教科書には、この動きは載っていない。
載っていないことが起きたなら、この先に書かれていたことも、そのままでは起きない。
逃げるために作った網だった。
その網が、逃げずに済む道を、今川に渡してしまったのかもしれない。




