【第49話】桶狭間の丘
五月十九日、朝。
後世に桶狭間と呼ばれる一帯。僕の知る史料——『信長公記』では、義元が陣を敷いたのは窪地ではなく、見晴らしの良い「山」だったと記されている。実際、今川の本陣は周囲を見渡せる丘陵の上に堂々と布陣していた。
二万五千の大軍を率いる今川義元が、わざわざ不利な窪地に身を置くはずがない。高台を押さえているのだから、どこから敵が来ても見えるはずだ——陣中の誰もが、そう信じていた。
「おい圭、顔が死人みたいになってるぞ。息はしているか?」
荷駄の集積所で、徹夜で帳簿と睨み合っていた僕の顔を覗き込み、彦四郎がからかうように笑った。
「……生きてるよ。ただ、ちょっと吐き気がするだけだ」
「なんだ、やはり初陣の空気に当てられたか。まあ無理もない。だが、刀を抜くのは朝比奈様の武辺者たちの役目だ。俺たちの仕事は帳面と荷駄を守ること。最後まで裏方として、お互い算盤と筆を転がしていればいいさ」
彦四郎はポンと僕の肩を叩いた。その不器用な軽口に、僕は一瞬だけ毒気を抜かれ、力なく笑い返した。
「……ああ。頼りにしてるよ」
彼なりの気遣いが嬉しかった。嬉しかったぶん、筆の先が紙に食い込んで、数字が一つ潰れた。
今日だ。
今日、この場所に、今川の栄華をすべて洗い流す雨が降る。
「おお、圭様! それに彦四郎様も! ご無事で何よりです!」
背後から、聞き慣れた陽気な声が響いた。
振り返ると、泥だらけの笠を被った大柄な男が、数頭の馬を引いて近づいてくるところだった。この時代で最初に僕を助けてくれた行商人、安吉さんだ。
「安吉さん!? なんでこんな最前線に……」
「なんでって、圭様が全財産を叩いて作った無茶な網でしょう。末端の馬借どもに任せきりじゃ心配で、この俺が直々に目を配らなきゃって思いましてね。それに……本陣の後ろなら、下手な街道よりずっと安全でしょうや」
安吉さんは豪快に笑いながら、馬の背から荷を下ろし始めた。
「いやあ、見事な勝ち戦じゃありませんか! 二万五千の大軍が動く様は圧巻ですな。早く戦が終わって、駿府にいる女房や子供に尾張の珍しい土産でも買って帰りたいもんです」
「……安吉さん、すぐに駿府へ戻ってくれ。ここは危険だ」
僕が絞り出すように言うと、安吉さんは目を丸くした。
「危険? 冗談を言っちゃいけませんや。先鋒の松平元康様は大高城への兵糧入れを完璧に果たされたと伝令が駆け抜けましたし、織田の砦は焼け落ちた。どこに危険があるってんです?」
安吉さんの言う通りだった。
陣中の空気は、昨日からの祝賀ムードがさらに一段階上がり、完全な「弛緩」へと向かっていた。
視線の先、本陣の中心部では、あの厳格な岡部元信でさえ兜の緒を緩め、床几に腰を下ろして茶を含んでいた。視線だけは周囲を警戒しているが、その顔に切迫した危機感はない。誰もが、もう戦は終わったかのように振る舞っていた。
「圭様、あんまり心配しすぎると身が持ちませんぜ。佐夜さんも駿府で心配してますから、しっかりしてくだせえ」
安吉さんは人の良い笑顔で僕を励ますと、他の馬借たちへ指示を出しに走っていった。
彦四郎と、安吉さん。僕の大切な友人たちが、やがて最悪の死地となるこの桶狭間の丘で無邪気に笑っている。
(あと数時間……)
空を見上げる。雲は出ているが、まだ雨が降る気配はない。
荷捌きを終えた安吉さんが、手を拭きながら戻ってきた。
「しかし今日は、道が楽でしてね」
帳簿から目を上げずに、僕は相槌だけ打った。
「熱田のほうに出ていた織田の物見が、今朝から急に減ってるらしいんですよ。昨晩まではあちこちで小競り合いがあったのが、今はまるで蜘蛛の子を散らしたように姿が見えねえと。砦を落とされて、恐れをなして清洲城にでも逃げ帰ったんでしょう。おかげで我々の荷駄も運びやすくて助かりやすよ」
筆が止まった。
(物見が、消えた……?)
違う。逃げ帰ったんじゃない。
歴史を知る僕だけが、その「空白」の意味に気づいた。
信長は、すでに動いている。物見の目を消し、こちらの耳を塞ぎ、全軍を挙げて、この丘へ向けて——。
この高台にいるから安全だと誰もが信じている。だが、豪雨の中で山際から一気に突っ込まれたら、高台も何もない。
「彦四郎……」
僕の声は震えていた。
「なんだ、また怖い顔をして」
「……雨が、降る」
空は、急激にどす黒い雲に覆われ始めていた。




