【第48話】死地での祝賀
「鷲津砦、陥落! 続いて丸根砦も落ちましたぞ!」
血と泥にまみれた使番が本陣に駆け込むなり、二万五千の陣中に地鳴りのような歓声が轟いた。
桶狭間の前夜。
尾張国境を越え、怒涛の進軍を続けていた今川の巨大な軍勢は、織田方の最前線の拠点をあっさりと踏み潰した。松平元康ら先鋒部隊の凄まじい働きであった。
見渡す限りの荒野に、今川家の馬印である赤鳥の旗が風にはためいている。数千の馬のいななき、太刀や槍の打ち合う金属音、そして砦から立ち上る煙と血の匂い。駿府の館で書類だけを見ていた時には想像もつかなかった、暴力の熱気と圧倒的な武力がそこにあった。
「織田恐るるに足らず!」
「うつけめ、未だ清洲城から一歩も動けぬと見える。もはや尾張平定は成ったも同然よ!」
本陣を囲む重臣たちの間には、すでに勝利後の恩賞を皮算用するような、絶対的な驕りが充満していた。
青く晴れ渡った初夏の空の下、きらびやかな鎧兜が陽光を反射し、勝利の鬨の声を上げている。それは、東海一の弓取りと呼ばれた今川義元の絶対的な力と栄華を象徴する、完璧で恐ろしいほどの光景だった。
——そして、この無敵に見える軍勢の中枢が、明日には文字通り吹き飛ぶ。
「……圭。おい、圭。顔色が悪いぞ。少し休むか」
本陣の最後尾、荷駄(輜重)の集積所でひたすら帳簿に筆を走らせていた僕の肩を、彦四郎が心配そうに叩いた。
「……大丈夫だ。休んでいる暇なんてない。大高城への荷の道は通っているか?」
「ああ。お前が手配した馬借たちが、信じられない速度で物資を運んでいる。三浦様も朝比奈様も、この進軍の速さはお前の荷駄網あってのことだと褒めておられたぞ」
彦四郎は無邪気に笑ったが、僕は微かに奥歯を噛み締め、手元の地図に視線を落とした。
違う。僕が全財産を注ぎ込んで作ったこの「特急の荷駄網」は、補給のためじゃない。
僕は救命具を作ったつもりだった。だが今、その救命具はこの軍勢を破滅の場所へ、より滑らかに運んでいる。
(もし明日、本陣が奇襲を受けたら……正規の退却路は完全に塞がれる)
僕は地図上の線を目でなぞった。
(だが、裏道として確保した馬借たちのルートなら、少人数なら抜けられる。大高城を迂回し、鳴海を抜けて三河へ逃げ延びるための馬を、すでに三カ所の宿場に待機させてある。ただし、その道が本当に空いている保証はない。敗兵が溢れれば馬借たちは逃げるかもしれないし、宿場の馬が残っているとも限らない。あとは……)
あとは、軍勢が崩壊するその瞬間に、僕が彦四郎の手を引き、この細い網に飛び乗るだけだ。
だが、歴史の濁流の中で、そんな都合の良い逃避行が本当に可能なのか。二万五千の大軍が阿鼻叫喚に陥る中で、ただの右筆である僕が彼を連れて逃げ切れるのか。
考えるのをやめた。
宿場は三カ所。馬は六頭。彦四郎の分と、僕の分。荷は置いていく。
数えられるものだけを数えて、僕は帳簿に戻った。
「……彦四郎。雨は、降らないだろうか」
僕は空を見上げた。眩しいほどの太陽が、僕たちを見下ろしている。
「雨? 今のところその気配はないが……まあ、梅雨の時期だからな。降るかもしれん。だが、多少の雨など、今の士気の前ではなんの障害にもならんさ」
「……そうだな」
僕は帳簿に目を落とした。文字が滲んで見える。
周囲では、兵士たちが戦果を語り合い、大声で笑い合っている。
彼らは皆、自分たちが数日後も生きて、尾張の土地を分配される未来を疑っていない。親友の彦四郎もそうだ。彼らの目には、輝かしい勝利の道しか見えていない。
手が震え、帳簿にボトリと黒い墨が落ちた。
「彦四郎」
「ん?」
「明日の昼……もし、もしも猛烈な雨が降って、軍が動けなくなった時は」
僕は、親友の袖を強く握りしめた。祈るような思いだった。
「絶対に、僕のそばから離れないでくれ。何があっても……僕から離れないでくれ」
彦四郎は不思議そうに僕の顔を覗き込んだが、僕のあまりの必死さに圧倒されたのか、やがて小さく頷いた。
「ああ。分かった。だが、どうしたんだ。お前、初陣とはいえ異常だぞ。まるで……明日、我らが皆殺しにでもなると言わんばかりの顔をしている」
僕は答えなかった。答えられなかった。
遠くで、再び歓声が上がった。また新たな敵陣が崩れたのだろう。
五月十八日、夕刻。




