【第47話】止められない歯車
駿府館の広大な評定の間は、これまでに経験したことのない異様な熱気に包まれていた。
二万五千という空前の大動員。駿河、遠江、そして三河から掻き集められた全軍が目指すのは、尾張の完全なる平定である。諸将たちはすでに戦勝の美酒に酔いしれ、疑うことすらしていない。
その狂騒の渦の中で、僕一人だけが、日数を数えていた。
あと数週間後、この二万五千の軍勢は頭を失い、無惨に崩壊する。
『五月十九日、田楽狭間で織田信長の奇襲に遭い、義元公は討ち死にする』と、大声で叫ぶことはできる。だが、言えなかった。
歴史を変えてはいけないという学生としての倫理は、もう綺麗事だと分かっている。
それでも、自分の一言でこの世界の未来を完全に組み替えてしまうかもしれないという恐怖だけは、どうしても消えてくれなかった。
もし歴史の歯車が完全に狂ってしまったら、佐夜や生まれてくる子供の未来はどうなるのか。
だが、歴史を変えずにいれば、今川家は滅亡への坂を転がり落ち、僕の大切な人々にまで戦火が及ぶ。
変える恐怖と、変えない絶望の狭間で、僕の心は引き裂かれそうだった。
だから僕は、歴史の根幹には触れず、周辺から少しでも被害を減らすための「別の理由」を探すしかなかった。
「……無理だ、圭」
評定の後、書物蔵の前で僕の必死の訴えを聞いた彦四郎は、苦く笑って首を振った。
「お前の言う兵糧の不安や、梅雨の時期の行軍の危うさ。理屈は痛いほどよく分かる。だが、今の今川は止まらない。あれはもう論理ではなく、熱病なんだ」
実務を担う彦四郎でさえ、この巨大なうねりには逆らえないと悟っていた。
僕は諦めきれず、次いで留守居役に任命された氏真様の執務室へと走った。
「……御屋形様。尾張への出陣に際し、せめて我々の手で『独自の荷駄網』を敷かせてください。前線への補給を二重にし、万が一の天候不良や長期戦に備えるための急ぎの荷駄の道です」
「二重の荷駄だと?」
出陣前の引継ぎ書類に忙殺されていた氏真様は、不快げに眉をひそめて筆を置いた。
「これから二万五千もの大軍で尾張を平定しようという時に、戦を始める前から逃げ道を心配するとはな。まるで我らが大敗を喫すると言わんばかりではないか」
「そ、それは……」
「……お前の言うことは時折、ひどくちぐはぐに聞こえる」
氏真様はしばらく僕を見ていた。
「だが、雪斎様が目をかけ、駿府の政務を回してきたお前が、無根拠に臆病風を吹かせる男ではないことも分かっている。留守居役としての権限で、その網を敷くことは認める。好きにやれ」
一礼して下がろうとした僕の目に、庭先の光景が映った。出陣支度の慌ただしさの中、ひときわ目を引く一つの品が運び出されていくところだった。
漆黒に朱の縁取りが施された、豪奢な輿。
「……あれは」
思わず声が漏れた。
「父上が、此度の遠征でお使いになる輿だ」
氏真様は僕の視線を追い、珍しく誇らしげな響きを声に滲ませた。
「今川は将軍家の一門ぞ。輿に乗ることを許されるのは、本来ならごく一部の家柄のみ。父上は長年幕府へ働きかけ、此度の遠征のために、ようやくその使用の許しを得られたのだ」
「……そんなに、大変なことだったのですか」
「当然だ。尾張の守護であった斯波家も、かつては輿を許された家柄であった。父上があの輿に乗って進めば、尾張の国衆どもは否応なく思い知る。今川こそが、正統な足利の血を引く者だとな」
氏真様の声には、単なる知識の披露以上の重みがあった。
「父上にとってあの輿は、ただの乗り物ではない。今川という家が背負ってきた誇りそのものだ。」
その氏真様の言葉の重さだけが、胸の奥に静かに沈んでいった。
僕は小さく頭を振って輿の残像を振り払うと、乱暴に書状の束を引き寄せた。氏真様から取り付けた公式な権限を最大限に利用し、行商人の安吉さんにさらなる協力を仰ぐ。駿河・遠江・三河の各地の宿場や馬借たちを片端から雇い上げ、前線の裏側に、通常の兵站とは別枠の網を構築していくのだ。
「圭の字……あんた、正気かい。いくら御屋形様の許可があっても、今川からの予算だけじゃ全く足りないぞ。残りの金はどうする気だ? まさか、あんた自身のこれまでの蓄えまで注ぎ込むんじゃなかろうな……?」
駿府の荷捌き場で無茶苦茶な依頼状を見た安吉さんは、顔を引きつらせていた。
「理由は聞かないでください。ですが、絶対に必要なんです。これまでの恩賞も、遠州屋での僕の儲けも、全部使い切って構いません」
決して歴史を変えるためではない。敗戦という残酷な決定事項を受け入れた上で、僕の大切な人たちを地獄から生還させるための、極めて個人的な足掻き。
だが数日後の軍議で、僕のその泥臭い足掻きは、最悪の形で裏目に出た。
「お言葉ですが……五月の尾張は雨が多くなります。もし大雨の行軍となった際は、田楽狭間や桶狭間といった視界の悪い窪地での休息は避けるべきかと存じます。そして、御屋形様の本陣の警護だけは分厚く……」
「たかが右筆が、何を戦の素人めいたことを申すか!」
僕の必死の進言は、重臣たちの豪快な笑い声によって一瞬でかき消された。
「相手はわずか数千の織田のうつけ。雨であろうが踏み潰せば済むこと。出陣前に臆病風を吹かせるな!」
嘲笑を浴びながらうつむく僕に、上座にいた重臣の一人が、小馬鹿にしたような笑みを浮かべて言い放った。
「そんなに我らが心配ならば、お主もついてくれば良い。お主自身で、御屋形様と敷いたという『新たな荷駄網』とやらを前線で動かせば良いではないか。精々、我らが逃げ帰るための備えでもしておくのだな」
どっと、さらに大きな嘲笑が広がる。
その時、上座の奥から低く、だが逆らえぬ声が響いた。
「よかろう。そこまで申すなら、己の目で戦を見よ」
義元公だった。彼は僕を一瞥し、鷹揚に言い放った。
「荷駄を案じる者が前線を知らぬのも不便であろう。朝比奈勢に付け。荷駄の差配を見よ」
「……えっ」
息が止まった。
最悪の事態から身内を逃がすために駿府から引いたはずの「保険」が、皮肉にも僕自身を破滅の中心地へと引きずり込んだのだ。
「……そなた、随分と震えているな」
軍議が散会した直後、青ざめて立ち尽くす僕の背中に声をかけてきた者がいた。
先鋒として出陣する、松平元康だった。
「元康、様……」
「初陣の怯えには見えんな。……妙な顔をしておる。まるで、何かをすでに知っているような目だ」
元康の鋭い眼光が、僕の心の奥底を射抜いた。
「……お願いです。元康様も、どうかご無事で」
僕が絞り出すようにそう言うと、元康は微かに笑った。
「三河衆は、己の役目を果たすのみだ。そなたも、死ぬなよ」
出陣の前夜。
「……ごめん。僕は駿府に残るはずだったのに、荷駄網の責任者として前線で差配を見ろと命じられてしまった」
「謝らないで。今川家に仕える人の妻になるって決めた時から、こういう日が来るかもしれないって覚悟してたから」
玄関先で、佐夜は少しだけ目を赤くしながらも、気丈に微笑んで僕の背中を叩いた。
「あなたも、お腹の子も、僕が絶対に守る」
「ええ。待ってるわ。絶対に帰ってきてね」
身重の妻を置いて、歴史の教科書通りの「死地」へと向かう。
僕は誰一人止めることができなかった。今川義元は死に、この軍勢は崩壊する。
ならせめて、地獄の中心に立つ僕自身の手で、親友を引きずり出して生還してみせる。
無力な預言者の、それが最後の抗いであった。




