【第46話】永禄三年
駿府の冬は短く、春の訪れは思いのほか早かった。
佐夜との祝言から数ヶ月。遠州屋の裏手にあるささやかな離れでの生活は、僕の荒んでいた心を少しずつ、だが確実に穏やかなものに変えてくれていた。
政務の重圧や、雪斎様不在による組織の歪みで胃を痛めて帰ってきても、そこにはいつも灯りと温かい食事があった。
「今日の市の麦の値段、また少し上がっていたわ。西の方でいくさの気配があるのかしらね」
「ああ……もしかしたら、美濃の情勢が影響しているのかもしれないな」
そんな風に、他愛のない商いの話や日々の出来事を語り合いながら笑い合える妻がいる。
現代からこの戦国時代に放り出され、いつ死ぬとも知れない恐怖の中で、根無し草のように漂っていた僕にとって、このささやかな日常は何にも代えがたい「錨」だった。
「……できたみたい」
ある春の夜。夕餉を終えた後、佐夜がぽつりとこぼした言葉に、僕は持っていた湯呑みを落としそうになった。
「えっ……できたって、まさか」
「ええ。町医者にも診てもらったから、間違いないわ」
佐夜は少し照れくさそうに、自分のお腹にそっと手を当てた。
「あんたも、いよいよ父親になるってわけね。……嬉しいけど、怖くないと言えば嘘になるわ」
その言葉に、彼女の強がりの裏にあるわずかな不安が滲んでいた。
「だから、あんたは今まで以上に胃を壊してる場合じゃないのよ」
「やった……。ありがとう、佐夜。本当に、ありがとう」
僕は思わず彼女の手を両手で包み込み、何度も何度も礼を言った。
目頭が熱くなり、視界がぼやける。
子供ができる。僕と、佐夜の子供が。
現代に帰る術も見つからず、ただ一日を生き延びるためだけに必死だった僕が、この時代に新しい命を繋ごうとしている。
「男の子かな、女の子かな……どっちでもいいな。元気に生まれてくれさえすれば」
「気が早いわよ。まだお腹だって全然目立たないのに」
くすくすと笑う佐夜を見つめながら、僕の胸の中に、これまでにないほど強烈な感情が湧き上がってきた。
(この子が生きる国を、少しでも良いものにしなければ)
今まで僕は、雪斎様に拾われた恩を返し、そして何より自分がこの理不尽な時代を生き延びるためだけに、現代の知識を小出しに使ってきた。歴史はあくまで「変えてはいけない教科書の記述」であり、僕はこの世界の傍観者でしかないと、どこかで線を引いていたのだ。
歴史に触れてはいけないという恐れは、今も消えていない。
けれど、触れずにいれば守れるものばかりではないことも、もう知っている。
僕の子供が育ち、自分の足で歩き、生きていく現実の世界がここにあるのだ。
天下の情勢を思い通りに動かせるなどとは思わない。それでも、自分の手の届く範囲——病や飢えであっけなく人が死ぬこの時代の理不尽さだけは、少しでも減らしたい。この駿府を、家族や周りの人間が安心して暮らせる場所にしてみせる。
歴史という巨大なうねりには逆らわずとも、初めて「この国の未来」を自分事として捉えられた気がした。
僕はこの戦国時代に、完全に根を下ろしたのだ。
「予定日はいつ頃になりそう?」
「医者の見立てだと、今年の冬……年の瀬か、年明けくらいになるんじゃないかって」
「そっか。冬か。じゃあ、寒くないように炭を多めに買い込んでおかないとね。産着の布も柔らかいものを探して……」
僕は頭の中で暦をめくった。
今は春。季節が巡り、冬が来る。
今は——永禄三年(一五六〇年)の、春。
「……え?」
「どうしたの? 急に黙り込んで」
佐夜が不思議そうに僕の顔を覗き込む。
「あ、いや……」
僕は引きつった笑みを浮かべて誤魔化しながら、心臓が早鐘のように打ち始めるのを感じていた。
全身の血が、音を立てて逆流していくような錯覚。
永禄三年。
知らなかったわけではない。むしろ、この年号のことばかり考えて、この半年を過ごしてきた。船を押さえ、兵糧を分けて買い、崩れた軍が戻る道を引いた。すべて、この年のためにやっていたことだ。
想像していなかったのは、そこに子がいることのほうだった。
この土地で生きると決めたつもりでいた。だが決めたのは僕が残ることで、僕の血を分けた者がここで生まれてくることまでは、一度も思い描いていなかった。
今川義元が、尾張平定を目指して二万五千という空前の大軍を率いて出陣し、田楽狭間の雨の中で、織田信長の乾坤一擲の奇襲を受けて討ち死にする。
義元公が倒れれば、三河は揺らぐ。元康は、いずれ今川の鎖を断つ。遠江も、駿河も、武田の火に晒される。
今は穏やかなこの町にも、戦火の匂いが届く。東海道の覇者たる今川家が、事実上の滅亡へと向かって転がり落ちる致命的な転換点。
それが——『桶狭間の戦い』が起きるのは、永禄三年(一五六〇年)の五月十九日。
あと、数ヶ月。
いや、すでに春も半ばを過ぎている。数週間後に迫っているかもしれない。
僕がせっかく見つけた「守るべき日常」は。
僕の子供が生まれてくるこの駿府という平和な国は。
たった数週間後に、歴史の濁流に飲み込まれて致命的な損壊を受ける未来が、すぐそこまで迫っているのだ。
僕に優しくしてくれた安吉さんたちも、共に政務に励んできた氏真様も、不器用な親友の彦四郎も、みんなその激流の渦中に放り込まれる。
「……圭?」
僕の異常な顔色に気づいたのか、佐夜が心配そうに僕の手を握りしめた。
(この手を、あと数週間で戦火の中に置くのか)
止められるとは思っていない。
義元公の生き死にに手を出せば、歴史そのものを動かすことになる。それは僕の領分ではないし、一介の右筆に動かせるものでもない。
だが、この町が焼けるかどうかは、別の話だ。
船はもう押さえてある。米も、塩も、傷薬も。崩れた軍が戻る道も引いた。同じ備えのはずなのに、今日から意味が変わってしまった。
守るものが一つ増えた。まだ名前もない、顔も見ていない者が。
春の暖かな夜風が吹き抜ける部屋の中で、僕は佐夜の手の温もりを感じながら、指を折って日を数えていた。




