【第44話】尾張の風
遠州屋の朝は早い。
まだ日が昇りきる前から、土間では奉公人たちが慌ただしく動き回り、荷車の車輪が擦れる音が聞こえてくる。
僕はその音で目を覚ました。
臨済寺の小部屋にいた頃とは違う、生きている人間の生活の音。そして、すぐ隣から聞こえる規則正しい寝息。
佐夜はまだ眠っていた。商いの時には見せない、無防備な顔だ。
祝言を挙げてから数日。僕の生活は少しだけ変わった。
昼間は駿府館で右筆として働き、夕暮れにはこの遠州屋へ帰る。夕餉を共にし、その日の出来事をぽつぽつと話す。
それは、現代にいた頃に僕が思い描いていた「普通の生活」そのものだった。
いや、むしろ現代の希薄な人間関係より、ずっと血の通った、温かい日々かもしれない。
だが——その穏やかさは、駿府館に着いた途端に打ち砕かれた。
* * *
「尾張の織田が、動いたらしい」
書物蔵に入るなり、彦四郎が声を潜めて言った。
手には、遠国から届いたらしい密書の写しが握られている。
「……織田の、信長……」
僕の口から、かすれた声がこぼれた。
「そうだ。あの『尾張の大うつけ』だ。どうやら、身内の争いを次々とねじ伏せ、日増しに勢いを強めているらしい」
彦四郎の顔は険しかったが、どこか現実味を欠いているようにも見えた。
駿府の人間にとって、尾張はまだ遠い。強大な今川家から見れば、織田など国境の小競り合いの相手に過ぎないのだ。
昼過ぎ、氏真の御前で開かれた少人数の評定でも、重臣たちの反応は似たようなものだった。
「身内を殺して国を奪うとは、血に飢えた山犬のやることよ。とうてい人の上に立つ器ではない」
「小国とはいえ、内乱を勝ち抜いた者は、戦の勘だけは鋭うござる。侮るべきではありませぬ」
三浦氏が冷静に釘を刺すが、その声はすぐにかき消された。
「しょせんは『うつけ』。我らは駿河・遠江・三河の三国を束ねる大国。あのような小国の内紛など、恐るるに足らず」
「御屋形様の御上洛の折には、よき手土産にできましょうぞ。精強なる今川の軍勢で一息に踏み潰してご覧に入れます」
大半の重臣たちは余裕の笑みを浮かべていた。氏真は軽く笑いこそしなかったが、その表情に切迫した危機感はない。尾張の織田が勢いづいているとしても、今川家の大勢を揺るがす相手とは見ていないのだろう。
彼らの目に映っているのは、領地と兵数の絶対的な差だ。豊かな領国を持ち、雪斎が遺した強固な制度で統制された今川家。対する織田は、長年の身内争いで疲弊しているはずの小規模な新興勢力。
誰がどう見ても、勝負にならない。それは当時の常識として、あまりにも正しかった。
——だが、僕は知っている。
その「うつけ」が、数年後、桶狭間の谷間で義元の首を獲ることを。
今川家という巨大な大木が、たった一夜の嵐で根本からへし折られることを。
胃の奥が、ギリギリと締め付けられるように痛んだ。
冷や汗が背中を伝う。
「……圭? どうした、顔色が悪いぞ」
評定が終わり、氏真が僕の顔を覗き込んだ。
「いえ……少し、腹の具合が」
「なんだ、もう遠州屋の飯にあたったか? 気の強い嫁をもらうからだ」
氏真が冗談めかして笑う。彦四郎も呆れたように肩をすくめた。
僕は引きつった愛想笑いを返すしかなかった。
彼らの常識は正しい。狂っているのは、その「常識」をすべて覆してしまう織田信長という男の存在自体なのだ。
言えるはずがない。「そのうつけに、今川家は滅ぼされますよ」なんて。信じてもらえる根拠など何一つない。ただ、巨大な歴史のうねりがすぐそこまで迫っているという絶望感だけが、僕の胸を黒く塗りつぶしていた。
* * *
その日の夕暮れ。
重い足取りで遠州屋の暖簾をくぐると、佐夜が帳場から顔を出した。
「おかえりなさい。……って、どうしたのその顔」
佐夜は僕の顔を見るなり、帳面を放り出して駆け寄ってきた。
「ちょっと、胃が……」
「また胃? 本当に武家の仕事って体に悪いわね。奥に行きなさい、温かいお茶を淹れるから」
佐夜に背中を押され、奥座敷に座り込む。
湯気から立ち昇る茶の香りを嗅ぐと、少しだけ痛みが和らいだ気がした。
「はい、これ。胃に優しい大根の煮物。それと、白湯」
佐夜が手際よく膳を並べてくれる。
「ありがとう……」
「顔色が土気色よ。何があったの? また面倒な書付でも回ってきた?」
佐夜は僕の向かいに座り、心配そうに覗き込んでくる。
僕は、白湯をすすりながら、彼女の顔を見つめた。
少し前まで、僕にとって「桶狭間」は、単なる歴史のイベントだった。
どうやって生き延びるか、どうやって歴史のつじつまを合わせるか。そればかりを考えていた。
だが今は違う。
もし桶狭間で今川家が敗れれば、駿府は混乱に陥る。武田や徳川がなだれ込んでくるかもしれない。
そうなれば、遠州屋だってどうなるか分からない。この穏やかな軒先も、佐夜との生活も、あっけなく踏みにじられる。
歴史はもう、教科書の中の出来事ではない。
僕の帰る場所を、僕の大切なものを、容赦なく奪い去ろうとする現実の嵐だ。
「……ねえ、圭さん」
佐夜が、僕の手の甲にそっと自分の手を重ねた。
「言えないことなら、無理に聞かないわ。でも、一人で抱え込まないで。あんたはもう、客じゃないんだから」
その温もりと真っ直ぐな言葉が、痛む胃の奥に染み渡っていく。
そうだ。僕はもう、客じゃない。
この時代に根を下ろしたのだ。
「佐夜さん」
「何?」
「……嵐が、来るかもしれない」
僕は、絞り出すように言った。
「遠くの国から、大きな嵐が。……この駿府を、全部吹き飛ばすような嵐が」
佐夜は少しだけ目を丸くした。普段なら「何よそれ」と笑い飛ばすか、深く踏み込まずに聞き流すだろう。だが彼女は、僕の手を握り返し、まっすぐに僕の目を見た。
「その嵐は、あんたがどうにかできるものなの?」
「……分からない。僕一人じゃ、きっと止められない」
「そう。じゃあ、今から二人でどうやって生き延びるか、考えなきゃね」
佐夜の指に、ぎゅっと力がこもる。
「嵐が来るなら、戸締まりをして、船を港に繋ぐ。商人はそうやって生きてきたんだから」
その頼もしさに、僕は少しだけ笑ってしまった。
胃の痛みは、まだ消えていない。




