【第43話】根を下ろす
その日、僕は遠州屋の奥座敷に一人で通された。
いつもなら土間で佐夜が茶を淹れてくれるのだが、今日は姿が見えない。代わりに上座に座っていたのは、遠州屋の主——佐夜の父親だった。
「右筆殿には、いつも贔屓にしていただき、ありがたく存じます」
初老の主は、いかにも商人らしい愛想のいい笑みを浮かべ、深々と頭を下げた。
「いえ、こちらこそ佐夜さんにはいつも……」
「本日は他でもありませぬ。少し、込み入ったご相談がございましてな」
主は姿勢を正し、スッと目つきを変えた。愛想のいい商人の顔から、遠州屋という大店を率いる当主の顔へ。
「単刀直入に申し上げます。右筆殿、うちの娘を貰ってやってはいただけませぬか」
心臓が跳ねた。
息を呑む僕を見て、主は淡々と続ける。
「遠州屋は今後、堺や西国との海運をさらに広げる所存。そのためには、今川家の内情に通じ、 御屋形様の覚えもめでたい右筆殿のような御仁と、縁続きになっておくのが最も確かな手でございます。無論、持参金やご支援は惜しみませぬ」
いかにも打算的な、商売上の理由だ。
だが——僕はあの夜からずっと、自分の宙ぶらりんな境遇について悩み続けていた。いつ消えるか分からない人間が、彼女の人生を縛っていいはずがない。
「……ありがたいお話ですが、お受けできません」
僕は絞り出すように言った。
「僕は、自分の明日すら確約できない人間です。親も、故郷も、得体も知れない。そんな男に、大事な娘さんを預けるべきではない」
「得体が知れないから、良いのです」
主の言葉に、僕は顔を上げた。
主は少しだけ目尻を下げ、今度は父親の顔で笑っていた。
「右筆殿。私は商人です。数字と銭の動きを見れば、おおよその裏は読めます。……娘の機嫌も、同じです」
主は茶をすすり、庭先に目をやった。
「あいつは母親に似て気が強く、素直に甘えることを知りませぬ。だが最近は、右筆殿が来る刻限になると、頼みもしないのに土間を掃き、上等な茶葉を用意して待っておる。……親の目から見れば、帳面の数字よりずっと分かりやすい」
「……」
「あいつの気持ちはあいつのものです。ですが、商家の娘である以上、勝手な真似はさせられぬ。ならば、親である私が『遠州屋の商売のために必要な縁談だ』と、理屈をつけてやるしかないでしょう。……不器用な親心とお笑いくだされ」
その言葉の温かさに、胸の奥がぎゅっと締め付けられた。
父親は、佐夜の気持ちに気づき、彼女が負い目を感じないように「商売上の理由」という隠れ蓑を用意してくれたのだ。
「……少しだけ、お時間をいただけますか」
「ええ。お待ちいたしますとも。なんせ、特上の取引ですからな」
* * *
駿府館に戻った僕は、未決の書類と格闘している彦四郎に事の顛末を話した。
彦四郎は筆を置き、酷く呆れたような顔で僕を見た。
「あのな、圭。お前は本当に阿呆か?」
「阿呆って……」
「いつ消えるか分からぬから断る? ならば問うが、明日戦が起きて俺が死なぬ保証がどこにある。来年、疫病が流行らぬ保証がどこにある。……明日が確約された人間など、この世のどこにもおらんのだぞ」
彦四郎の言葉は、戦国時代を生きる武士の冷徹な事実だった。
「お前は根無し草だ。過去も故郷も持たぬ。だからこそ、今川家中でどれほど役に立とうと、どこか『客』の匂いが抜けんのだ。もしお前が本気でこの駿河に生き、何かを成すつもりなら——根を下ろせ。守るべきものを持て。それが、お前がここにいるという『証』になる」
彦四郎はそう言って、再び筆を握った。
「……まあ、あの気の強い娘を嫁にもらうなど、俺なら御免被るがな。お前の胃がもつかどうか、せいぜい見物させてもらう」
不器用な親友なりの、最大限の祝福であり、背中を押す言葉だった。
* * *
その夜、僕は再び遠州屋を訪れた。
裏手の庭で、佐夜は干し物を取り込んでいた。夕風が冷たくなり始めている。
「圭さん。……父から、聞いたわ」
佐夜は僕を見るなり、少しバツが悪そうに目を逸らした。干し物を抱える指先に、いつもの彼女らしくない力が入っていた。
「気にしないで。父は商売のことしか頭にない人だから、武家との繋がりが欲しくて適当なことを言っただけよ」
いつものように強がる佐夜に、僕は一歩近づいた。
「佐夜さん」
「な、何よ」
「僕は、親の顔も知らない。どこから来たのかも、はっきりと言えない。そして……ある日突然、またどこかへ消えてしまうかもしれない。そんな恐怖を、ずっと抱えて生きてる」
佐夜は干し物を抱えたまま、じっと僕の目を見た。
「だから、君の人生を巻き込むのが、怖かった」
沈黙が落ちた。
佐夜は小さく息を吐き、抱えていた干し物を桶の上に置いた。そして、まっすぐに僕を見据え返した。
「馬鹿ね」
「え?」
「明日、遠州屋の船が嵐で沈まない保証なんて、どこにあるのよ」
佐夜の言葉は、驚くほど彦四郎と同じだった。
「商人はね、いつ船が沈んでもいいように覚悟して、それでも船を出すのよ。あんたが明日消えるなら、その時は帳面に損失として書き込んで、さっぱり忘れてあげるわ。私の人生を誰が選ぶかくらい、私に決めさせなさい。……でも、今日あんたがここにいるなら、それは私のものよ」
気が強い、商人の娘の理屈。
だがその言葉の奥にある、一切の言い訳を許さない強烈な温かさが、僕の中にずっとあった「宙ぶらりんの恐怖」を、跡形もなく吹き飛ばした。
「……本当に、損失で書き込まれても知らないよ」
「その時は、あの世まで借金取りに行ってあげる」
佐夜が少しだけ笑った。
その笑顔を見た瞬間、僕の中で、何かが確かな音を立てて繋がった気がした。
* * *
その後の数日は、夢の中を歩いているようだった。
遠州屋の主と細かな段取りを決め、彦四郎には何度もからかわれ、佐夜とは顔を合わせるたびに互いに目を逸らした。
そして、祝言の日。
遠州屋の奥座敷で開かれたのは、身内と、武家側からは彦四郎だけが同席する、ささやかな宴だった。氏真からは、祝いの品として見事な反物が届けられていた。
とはいえ、僕がすぐに遠州屋の帳場に入るわけではない。駿府館での右筆の務めは続ける。ただ、帰る場所が臨済寺の小部屋から、この軒先へ変わるだけだ。
三三九度の盃を交わし、佐夜が少しだけ赤い顔で僕を見る。
僕は杯を干しながら、心の奥で、静かに一つの別れを告げた。
現代のゼミ室。エアコンの効いた図書館。スマホの画面。
たとえ帰る道が開いたとしても、迷わず歩き出せる自分では、もうなかった。
歴史への畏れは消えない。いつか信長が来るという恐怖もある。
だが、もう僕は「客」ではない。
この時代に根を下ろし、佐夜のいるこの軒先を、僕の帰る場所とする。
戦国の世に迷い込んで数年。
僕はついに、自分が生きるべき時代を、自分の意志で選んだのだ。




