【第42話】軒先の匂い
稟議の仕組みが回り始めてから、駿府館の空気は少しだけ穏やかになった。
以前のように深夜まで書物蔵に籠もる必要はなくなり、日が傾く頃には彦四郎と二人で蔵を出ることも増えた。氏真の顔色にも、わずかだが赤みが戻ってきている。
僕自身も、泥だらけの膝を引きずって重臣の屋敷を回る日々は一段落し、少しだけ息をつく時間ができていた。
その日も、仕事を片付けた僕は、自然と町人地へ足を向けていた。
遠州屋の暖簾が、夕暮れの風に揺れている。
この暖簾をくぐる時だけ、僕は武家社会の緊張から解放される。佐夜の淹れてくれる渋い茶と、帳面をパラパラ捲る音。そこには雪斎の亡霊も、重臣の面子も存在しない。
暖簾をくぐろうとして、僕は足を止めた。
店の中に、見慣れない男がいた。
歳は二十半ば。日に焼けた肌に、人懐こい笑顔を浮かべた若い商人だ。上方訛りの柔らかな口調で、佐夜と何やら帳面を広げてやり取りしている。
「佐夜殿のお見立て、いつも正確で助かります。堺の魚問屋も、遠州屋との付き合いには一目置いとりますよ」
「褒めたって値は下げませんよ、忠兵衛さん。でも、次の船荷の件は少し考えておきます」
佐夜が笑った。
いつもの素っ気ない笑い方ではない。商売上の相手に対する、社交的で自然な、大人の女の笑顔だった。
忠兵衛と呼ばれた商人は、帳面を片付けながら立ち上がった。
「ところで佐夜殿、近々遠州屋の若旦那も決まる頃でしょう。旦那衆の間では、もう噂になっとります」
「余計なお世話です。うちに若旦那なんか要りません」
「そう仰らず。良い縁があれば、某が仲立ちを」
佐夜は困ったように眉を寄せたが、怒るでもなく、軽くいなして忠兵衛を送り出した。
入れ違いに暖簾をくぐった僕を見て、佐夜は一瞬きょとんとした。
「あら、圭さん。いたの」
「いま来た」
「ふうん。商談が長引いちゃって。忠兵衛さん、堺の廻船問屋の次男坊で、去年から遠州屋と取引してるの。腕は確かだし、話も早いし、商いの相手としてはまあ悪くないわね」
佐夜は何でもないことのように説明しながら、奥で茶の支度を始めた。
僕は店の隅に腰を下ろし、さっきの光景を反芻していた。
佐夜が、他の男に笑いかけていた。
それだけのことだ。商売の相手に社交的な笑顔を見せるのは当然で、佐夜の商人としての力量の証でしかない。
なのに、僕の胸の奥には、説明のつかない不快感が澱のように溜まっていた。
若旦那。縁談。
遠州屋のような廻船問屋にとって、縁談は恋の話ではなく、船路と信用を結ぶ商いの一部でもある。分かっている。分かっているのに、あの商人の言葉が、妙に耳に残っていた。
「何を難しい顔してるの。また武家の面子で胃が痛いの?」
佐夜が、湯呑みを差し出しながら僕の顔を覗き込んだ。
「……いや。何でもない」
「何でもない顔には見えないけど」
佐夜は向かいに座り、自分の分の茶を啜った。
夕暮れの日が土間に差し込み、彼女の横顔を柔らかく照らしている。帳面を脇に置き、湯呑みを両手で包む仕草。髪の毛が一筋、頬にかかっている。
僕は、その横顔から目を逸らせなかった。
いつから、こんなふうに見ていたのだろう。
「そうだ、圭さん。さっき伊豆の商人から蜜柑をもらったの。食べる?」
佐夜は立ち上がり、奥から小さな籠を持ってきた。伊豆から試しに送られてきたという、まだ青みの残った蜜柑が数個入っている。
「裏の方が涼しいから、そっちで食べましょう」
* * *
遠州屋の裏手は、小さな庭のようになっている。干し物の竿と、井戸と、ひっくり返した桶がいくつか。佐夜はその桶の一つに腰を下ろし、器用に蜜柑を剥き始めた。僕もその隣に座った。
蜜柑の皮が剥ける音。夕風が干し物を揺らす音。遠くから、町人地の喧騒がかすかに聞こえる。
この何でもない時間が、僕にとってはどれほど貴重か。佐夜は知らないだろう。
「ねえ、圭さん」
「うん」
「最近、ちゃんと食べてる? この前来た時より、また少し痩せたんじゃない」
佐夜は蜜柑を剥きながら、さりげなく言った。さりげなさすぎて、逆に気になった。
この娘は、僕の体型の変化を覚えているのだろうか。
「……食べてるよ。彦四郎と一緒に」
「彦四郎さんと二人じゃ、どうせ握り飯ばっかりでしょう。男だけの食事って、だいたいそうなのよね」
佐夜は呆れたように言いながら、剥いた蜜柑のひと房を、当たり前のように僕の手に載せた。
「はい。甘いの当たった」
自分の分より先に、甘い房を僕に渡す。
たぶん、佐夜にとっては何でもないことだ。客に茶を出すのと同じ、商人の娘としての自然な振る舞い。
……そう思おうとした。だが、さっきの忠兵衛に対しては、佐夜は茶こそ出したが、蜜柑を分けてはいなかった。
考えすぎだ。蜜柑を剥いたタイミングが違っただけだろう。
でも、心臓がうるさい。
「顔色は少しいいわね。館の仕事、うまくいってるの?」
「……うん。まあ、少しだけ」
「そう。よかった」
佐夜は自分の分の蜜柑をひと房口に入れ、目を細めた。
「甘い。当たりだわ」
……今、「甘いの当たった」と言って僕に渡したのは、何だったのか。自分の分も甘いなら、僕に渡した一房が特別に甘かったわけではない。つまり彼女は、味を確かめる前に、先に僕に渡した。
いや。考えすぎだ。本当に。
「佐夜さん」
「何?」
「……さっきの、忠兵衛さんって人。よく来るの?」
「月に一度くらい。堺との取引でね。……何? 気になるの?」
佐夜が、少しだけ首を傾げた。からかうような、それでいてどこか探るような目だった。
——いや。違う。
今、ほんの一瞬だが、佐夜の口角が上がらなかったか。僕が忠兵衛のことを聞いたのを、嬉しがっている?
馬鹿なことを考えるな。商人の娘が、得体の知れない右筆に気を向けるわけがない。
「いや、別に——」
「別に、ね」
佐夜は蜜柑の筋を丁寧に取りながら、少しだけ黙った。
「……忠兵衛さんはいい人よ。商売の話は早いし、気が利くし、うちの父も気に入ってる。でもね」
「でも?」
「私は、商売の相手を選ぶように、一緒にいる人を選ぶ気はないの」
佐夜はそう言って、残りの蜜柑を僕の手に押し付けた。
「帳面の数字だけで人を測るなんて、つまらないでしょう」
佐夜はそれ以上、説明しなかった。
説明すれば、商談ではなくなってしまうとでもいうように。
その言葉の意味を、僕は正確に受け取れたのかどうか分からない。
受け取りたい意味と、受け取っていい意味は、きっと違う。
ただ、佐夜が僕の手に蜜柑を渡した時の、指先の温かさだけが、はっきりと残った。
あの夜——雪斎を失ってボロボロだった僕の手を、湯呑みごと包んでくれた、あの温もりと同じだった。
* * *
その夜、臨済寺の自室で、僕は天井を見つめて眠れずにいた。
佐夜の横顔が、頭から離れない。
蜜柑を剥く手つき。頬にかかった髪を払う仕草。「帳面の数字だけで人を測るなんて、つまらない」と言った時の、少しだけ強い声。
僕は、佐夜のことを考えている。
拠り所としてではなく、一人の女性として。
いつからだろう。
あの夜——いや、もっと前からかもしれない。海難事故の時、船のことで口走った僕を、佐夜は問い詰めなかった。「この男は得体が知れない」と分かっていて、それでも距離を保ちながら、見捨てなかった。
雪斎が死んだ時、ボロボロの僕に煮物を出し、冷えた手を温めてくれた。
稟議のヒントをくれたのも、彼女の商談を見たからだ。
佐夜は、僕の「拠り所」だった。
だが今、僕が恐れているのは——佐夜が僕の拠り所でなくなることではない。
佐夜が、誰か別の人のそばにいくことだ。
忠兵衛。あるいは、まだ顔も知らない誰か。佐夜にふさわしい、この時代に根を下ろした、得体の知れなくない、真っ当な男。
その男が佐夜の隣に座り、蜜柑を分け合い、あの笑顔を向けられている光景を想像した途端、胸の奥が鋭く軋んだ。
嫉妬だ。
歴史を変えるかどうかで悩んでいた男が、蜜柑ひと房で嫉妬している。認めた瞬間、自分の小ささに笑いそうになった。
だが——同時に、その感情の裏側に、重い澱が沈んでいた。
僕は、いつ消えるか分からない人間だ。
この時代に来てしまった理由も、帰る方法も分からない。ある日突然、元の世界に引き戻されるかもしれない。
そんな人間が、誰かを想っていいのか。
この気持ちの先に、何かがあると期待していいのか。
踏み出した足が、いつか宙を蹴ることになるかもしれない。
その怖さが、芽生えたばかりの感情に、冷水のように降りかかった。
元康の顔が浮かんだ。
あの底知れない青年は、「そなたも、何かに縛られておるのだな」と言った。
そうだ。僕は縛られている。この時代と現代の間で、宙ぶらりんに。
でも——遠州屋の軒先の匂い。土と胡麻油と干物が混じった、生きている人間の匂い。あの匂いを嗅いだ時だけ、僕は自分が「ここにいる」と感じられる。
そう気づいた瞬間、胸が温かくなるより先に、怖くなった。
帰りたい場所は、もう現代ではない。
佐夜のいる、あの軒先だ。




