【第41話】歯車と蝶
駿府館の書物蔵には、以前よりも少しだけ穏やかな空気が流れていた。
「……三浦殿の判は得てある。朝比奈殿は四度も突き返したと聞いたが、結局は据えた。岡部殿も、だ。これで、次の普請の差配は滞りなく進むはずだ」
氏真が、机の上に積まれた書付の束を見下ろしながら息を吐いた。
その顔には、雪斎が亡くなった直後のような悲壮感はない。
現在、父である義元は外交と軍事に専念しており、本国の内政は名代である氏真に委ねられている。次期当主としての力量を問われるその重圧に、彼は一人で押し潰されそうになっていた。
だが、血を吐くような泥沼の評定は、事前に文面を持ち回る「稟議」という不格好な歯車に置き換えられた。
泥臭く、ひたすらに手間のかかるやり方だ。しかし、氏真が一人ですべてを背負い込むのではなく、重臣たちがそれぞれの面目を保ちながら責任を分担する仕組みが、たしかに機能し始めていた。
「大儀であった、圭」
氏真が、ふっと表情を和らげて僕を見た。
僕は泥で汚れた膝を払いながら、深く息を吐いた。
遠州屋の軒先で佐夜が淹れてくれる茶を飲み、この薄暗い書物蔵で彦四郎と並んで座り、時折こうして氏真の手伝いをする。スマホもネットもないこの時代で、何の力もない僕が生きるための「役割」が、ようやく見つかった気がしていた。
その日の午後、氏真に頼まれた書付を届けに行った帰り道のことだった。
駿府館の渡り廊下から中庭を横切ろうとしたとき、池の端に人影があった。若い武士が一人、欄干に腰を預けて地面を眺めている。
年は十五か十六といったところか。まだあどけなさの残る顔立ちだが、背筋はぴんと伸び、足の置き方、腕の置き方に隙がない。人質として他家に預けられた者が、無意識に身につける身の処し方だ——そう思ってから、僕はハッとした。
蟻だ。
彼の視線の先にあるのは、池のそばの地面を這う蟻の列だった。
心臓が跳ねた。
数年前、この同じ庭で、同じように蟻の行列を見つめていた痩せた子供がいた。
あの時の子供は、もういない。代わりに、ここにいるのは——。
僕が立ち止まったのに気づいたのか、若武者はゆっくりと顔を上げた。
探るような、妙に落ち着いた目だった。あの頃と変わらない。大人に慣れた、それも自分に好意を持たない大人に慣れた目。
「そなたが、近頃、氏真様の側で政を手伝っているという者か」
落ち着いた、よく通る声だった。
僕は慌てて道の端に寄り、深く頭を下げた。
「松平次郎三郎元康だ」
松平元康。
竹千代が元服し、名を改めたことは知っていた。だが、名前を聞くのと、目の前にいる青年とが結びつくのには、一拍の時間がかかった。
「は、はい……氏真様のお手伝いを、少しだけ」
「少しだけ、か」
元康は、微かに口角を上げた。笑ったのかどうか分からない。静かに観察されている、という感覚だけが残った。
「雪斎様の弟子であったと聞く。なるほど、それで書物蔵にいるのか」
「弟子というほどの者では……ただの右筆です」
「右筆が重臣の屋敷を一軒一軒回り、判を集めて歩く。ただの右筆にしては、骨が折れような」
知っている。
僕がここ数日、泥だらけになりながら朝比奈様や岡部様の屋敷を走り回っていたことを、この青年は知っている。
驚きより先に、背筋が冷えた。駿府館の中で何が起きているか、元康は注意深く見ている。
「少し、話をしてもよいか」
元康はそう言って、池の端の石に腰を下ろした。座れ、という意味だろう。
断る理由はなかった。僕は少し離れた場所に腰を下ろした。
「某は三河の者だ。幼い頃から駿府におる。今川のお家のために何ができるか、それだけを考えてきた」
元康は池の水面を見つめたまま、淡々と言った。
「御屋形様にも、氏真様にも、深い御恩がある。某を養い、教え、武芸を学ばせてくださった。この恩に報いるために、早く初陣を果たし、槍を振るいたいと常々思うている」
その声に淀みはなかった。忠義を語る言葉に、嘘の匂いはしない。
だが——僕が引っかかったのは、その「淀みのなさ」そのものだった。
十五、六の青年が、他国で人質として育てられ、実家の三河とは切り離され、それでも恨み言一つ漏らさず「恩に報いたい」と言い切る。
それは、純粋な忠義なのか。
それとも——人質として生き延びるために、完璧に身につけた処世なのか。
「ところで」
元康が、不意に話題を変えた。
「そなたが持ち回っておるあの仕組み——重臣の判を事前に集めるというものだが。あれは、評定の場で揉めぬための布石であろう」
僕は少し驚いた。稟議の仕組みの本質を、一度も中身を見ていないはずの元康が、正確に言い当てている。
「は、はい。事前に各家の判が揃っていれば、評定は承認の儀式になりますので……」
「面白い」
元康は頷いた。その目が、一瞬だけ鋭くなった。
「だが、あれは危うい仕組みでもある。三浦殿の判が先に据えられれば、朝比奈殿は断りにくい。朝比奈殿が据えれば、岡部殿も退きにくい。……順番を決めた者が、評定を決めておる。その者に、力が集まる」
心臓が跳ねた。
元康は、稟議の仕組みの利点だけでなく、その権力構造上の危険性を見抜いていた。事前調整を握る者が、実質的な決定権を持つ。
数日前、朝比奈様の前で三浦様の言葉を作ったとき、僕はその危うさの端に触れたばかりだった。まだ形にもなっていないその感触を、この青年は一目で言い当てた。
「某が口を挟むことではない。ただ、氏真様のお側にいるなら、心に留めておくがよい」
元康は穏やかに笑った。だが、その穏やかさの中に、僕は計り知れない何かを感じた。
この青年は、駿府館で起きていることを、ただ「見ている」だけではない。分析している。構造を理解している。そして、それを自分の中に蓄えている。
「元康様は……三河が恋しくはないのですか」
言ってしまってから、しまった、と思った。人質に故郷の話を振るなど、無神経にもほどがある。
だが元康は、怒りもしなかった。ただ、一瞬だけ、視線が池の水面から離れた。
遠くを見るような——いや、何かを見ないようにするような、微かな間。
そしてすぐに、穏やかな表情に戻った。
「三河は、某の知らぬ土地だ。物心つく前に駿府に参った。恋しいも何も、覚えてはおらぬ」
嘘だ、と思った。
嘘か本当かではなく、この返答そのものが——「自分の感情を完璧に制御できる人間」の証だった。
十五、六で、ここまで自分を律せる人間がいる。怖い、と思った。
元康は少し黙ったあと、ぽつりと付け加えた。
「……三河の者たちから、時折、文が届く。某の家臣だった者たちだ」
家臣だった、ではない。今も家臣だ。だが元康は、「だった」と言った。
自分が三河にいないことを、人質としてここに留め置かれていることを、その一語が静かに物語っていた。
「文には、田畑の出来や、子が生まれたとか、橋が流されたとか、そういうことが書いてある。某に宛てているようで、某に報告しているのでもない。ただ……繋がりを、切らさぬために書いているのだと思う」
元康はそう言って、池の水面に目を落とした。
「某は返事を書く。が、何を書けばよいか、いつも迷う。三河の土の匂いも知らぬ者が、田畑のことに何を言えよう」
穏やかな声だった。恨みも嘆きもない。
だがその穏やかさが、かえって痛ましかった。知らない故郷の家臣たちに、知らない土地のことについて返事を書き続ける。その孤独の深さは、僕には想像することしかできない。
「僕も……似たようなものかもしれません」
気づいたら、口が動いていた。
「帰りたい場所があるのに、帰れない。自分がいるべき場所が、ここではないかもしれないと思いながら、でもここで役割を果たすしかない。自分の意志ではどうにもならないものに、縛られている……」
元康が、静かにこちらを見た。
僕は慌てて口をつぐんだ。言いすぎた。現代から来たことなど、絶対に悟られてはならない。
だが元康は、それ以上問い質さなかった。
ただ小さく、本当に小さく頷いた。
「そなたも、何かに縛られておるのだな」
それだけだった。
追及しない。踏み込まない。だが、確かに受け止めた。
この距離感が、元康という人間の怖さであり、同時に、不思議な心地よさでもあった。
「……蟻を見ておいでだったのですね」
沈黙が重くなる前に、僕は地面の蟻の列に目をやった。
元康は少し意外そうな顔をした。
「ああ。昔からの癖だ。蟻は面白い。見ていると、落ち着く」
「以前も……この庭で蟻を見ておられましたね。ずいぶん昔のことですが」
元康の目が、わずかに細くなった。
「……覚えておるのか。あの時、某はまだ竹千代と名乗っていた。そなたは、雪斎様に連れられて来ていたな」
覚えていた。
あの時の痩せた子供は、通りすがりの僕の顔を、ちゃんと覚えていた。
人質の子供が、館に出入りする人間の顔を一人一人記憶している。それが生存のための習慣だったのだと気づいて、胸の奥が痛んだ。
「あの頃、蟻を見ていて、面白いことに気づいた」
元康は地面に目を落としたまま、静かに続けた。
「蟻は、先頭の一匹がいなくなっても止まらぬ。二番目のやつが、すぐに先頭になる。三番目も、四番目も同じだ。何匹潰しても、列は途切れぬ」
あの日と、同じ言葉だった。
だが、八歳の子供が呟いた時と、十五歳の青年が語る時では、意味がまるで違っていた。
あの時、竹千代は蟻の生態を観察する無邪気な子供だった。
だが今、元康は——自分自身を、その蟻の列に重ねているのではないか。
先頭が潰されても、二番目が立つ。何度踏まれても、列は途切れない。
それは人質として踏まれ続けてきた少年が、「それでも自分は止まらない」と、静かに自分自身に言い聞かせている言葉だった。
「某は、蟻でよいと思うておる」
元康は、穏やかに、けれどどこか突き放すように言った。
「先頭でなくてもよい。ただ、列の中にいて、自分の役目を果たす。それが某の在り方だ」
謙虚な言葉だった。忠義に篤い言葉だった。
だが僕は、その言葉の奥にある、もう一つの意味に気づいてしまった。
——先頭がいなくなれば、二番目が先頭になる。
元康は、待てる人間だ。
どれほど長くても、どれほど理不尽でも、自分の順番が来るまで、黙って列の中にいられる人間だ。
そしてその順番が来た時——この青年は、躊躇なく先頭に立つだろう。
好ましい青年だった。
礼儀正しく、穏やかで、恩義を忘れない。
だからこそ、怖かった。その美点の奥に、何を捨て、何を待てるのか分からない深さがあった。
「では、某はこれで」
元康は立ち上がり、軽く会釈をした。
「そなたの仕事は、某のような者にも伝わっておる。氏真様をよく支えてやってくれ」
その背中が渡り廊下の向こうに消えるまで、僕は動けなかった。
松平元康。のちの、徳川家康。
僕の知っている歴史では、彼はやがて今川を離れ、独自の道を歩むはずだった。
だが……。
僕は自分の手のひらを見下ろした。
墨と泥で汚れた、何の力もない手だ。
僕が今、氏真様のために必死に作り上げている仕組み。
それは今川家を内側から安定させ、雪斎を失ったことによる崩壊を防ぐためのものだ。
もし、僕のこのささやかな足掻きが実を結び、本当に今川家がかつての強さを取り戻してしまったら——あの青年が今川を離れる機会は、永遠に訪れないのかもしれない。
あの好ましい、けれど底知れない青年。
蟻のように耐え、蟻のように待ち、自分の順番が来ることを信じている青年。
その「順番」を、僕は——僕自身のちっぽけな居場所を守るために——永遠に来させないようにしているのかもしれない。
ほんの小さな羽ばたきのつもりだった。だが、それが遠い未来の風向きまで変えてしまうのかもしれない。
その途方もない可能性に気づき、僕は一人、身震いした。
* * *
同じ頃、駿河から遠く離れた尾張の地。
清洲城の広間で、鋭い目つきの男が、東の空を睨みつけていた。
「……雪斎が死んでなお、今川の崩れが見えんか」
織田信長の問いに、答える者はいなかった。




