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【第40話】泥だらけの花押

「書き直せ」


朝比奈泰能は、僕が差し出した書付を一瞥しただけで、無造作に畳へと放り投げた。

ぱさり、と頼りない音がして、書付は畳の上を滑った。


「『遠江の鎮めとして普請の総差配を担う』。言葉の響きは悪くない。だが、これでは某が遠江の土木普請を『一人で』負わされるように読める。寄親としての格は立つが、寄子たちへ負担を強いる口実にはならん」


僕は慌てて書付を拾い上げ、頭を下げた。

顔を上げたとき、広間を出ていく背中が見えた。門前に並んでいた履物の主だ。誰なのかは、最後まで教えられなかった。

朝比奈様の屋敷を訪れるのは、今日だけで三度目だった。言葉尻を一つ変えては書き直し、名目を一つ増やしては書き直す。現代の企業で言うところの、稟議書の差し戻しだ。だが、相手は機嫌を損ねれば刀を抜く。


「申し訳ありません。すぐに改めます。では、『遠江の諸将を束ね、共に総差配を——』」

「それでは某が、ただ間を取り持つだけの役ではないか。


ピシャリと撥ね付けられ、僕は小さくため息を呑み込んだ。

へりくだれば舐められたと怒り、責任を重くすれば押し付けられたと反発する。実利と誇りが釣り合う、針の穴のような一点しか通らない。


「……もう一度、文面を練り直してまいります」


這々の体で朝比奈様の屋敷を辞し、僕は駿府館の書物蔵へと戻った。

日が暮れかけている。冷たい風が吹き込む蔵の中で、僕は一人、墨をすり続けた。

何度書き直したか分からない。筆を持つ手が震え、指先は墨で真っ黒に汚れ、袴の膝には泥が跳ねている。


なんの因果で、こんな泥臭い根回しのために頭を下げて回っているのだろう。

「……逃げ出したい」

ポツリと、本音が漏れた。望んでこの時代に来たわけじゃない。武士の面目など、知ったことか。

だが、逃げ出してどうなる? 現代への帰り方も分からない。スマホもネットもないこの戦国時代で、僕のような無力な人間が一人で生きる術はない。雪斎という後ろ盾を失った今、彦四郎と並んで書物蔵に座り続けるためにも、自分自身の力で「役割」を作るしかなかった。


評定の場で多数決を取っていた頃が、どれほど気楽だったことか。

あの頃は、正論を口にするだけで「仕事をした気」になっていた。だが、それは組織を動かしたのではなく、単に自分の手を汚さずに責任を放棄していただけだったのだ。


翌朝、僕は四度目の訪問で、ようやく朝比奈様の前に新しい書付を差し出した。


『朝比奈家は遠江の要として普請の総監を担い、その威光をもって国衆の負担を差配する』


負担を負うのではなく、威光をもって差配する。

やることは同じだ。だが、これなら朝比奈家が国衆に恩を売る側になる。


朝比奈様は、その書付をじっと見つめていた。

長い沈黙。冷や汗が背中を伝う。

やがて、低い声が落ちた。


「……『威光をもって差配する』、か」


一度だけ、声に出して読み返した。


「文は、ようやく読めるものになった。あとは、誰が最初に捺すかだ」


顔を上げられなかった。ここで名を出さなければ、二日が無駄になる。


「……筆頭は、三浦様にお願いしております」


三浦様が引き受けてくださったのは事実だ。だが朝比奈様が知りたいのは、なぜ引き受けたかのほうだろう。

あの人が数えていたのは、若君が箸をつけぬまま膳を下げさせた日の数だった。それを言えば、この話は通る。

言わなかった。代わりに、僕は口を開いていた。


「三浦様は、己の判が一番最初でなければならぬと」


三浦様は、そんなことは一言も仰っていない。

言い終えてから、背筋が冷えた。人の誇りを、僕の都合で作った。初めてだった。

朝比奈様は、短く鼻を鳴らした。


「あの堅物め。自家の面目ばかりはしっかりと立ておるわ。……だが、三浦が筆頭で判を押すというのなら、某が渋るわけにもいかんな」


朝比奈様は筆を執り、ついに書付の末尾に自らの花押を据えた。

泥だらけの花押だった。墨のすぐ横に、僕の親指の跡がついている。


「次へ行け、右筆。岡部殿は、某と違うて理屈では動かん」

「はい。心得ております」


僕は深く頭を下げ、書付を胸に抱きしめた。

岡部様の屋敷へ向かう足取りは、不思議と軽かった。

嬉しさの底に、さっき口にした嘘が沈んでいた。


岡部様の屋敷は、朝比奈様のそれより狭く、庭がなかった。通された部屋の壁に、槍が三本立てかけてある。手入れの跡が新しい。


「朝比奈が総監なら、我らはその下働きか」


書付を読み終えるより早く、声が飛んだ。

僕は用意してきた言葉を出した。岡部家には武功の誉れを添える。道々、そう決めてきた。


「岡部様のお働きは、武功の誉れとして——」

「戦を知らぬ右筆が、武功を語るか」


畳が鳴った。岡部様が膝を進めた音だった。

喉が詰まった。用意した言葉は、一言目で潰れた。朝比奈様で通った形が、そのまま通ると思っていた。


引き下がれば、また明日から書き直しだ。


「……人を出し、飯を食わせ、日を数える」


声が掠れた。


「秋の普請が終わるまで、国衆を束ねて動かします。指図が乱れれば人が死ぬのは、戦場と変わりませぬ。……それを、戦とは呼ばぬのですか」


岡部様の動きが止まった。

長い沈黙のあと、壁の槍を一度だけ見た。


「普請を戦と呼ぶか。……面白いことを言う。ならば岡部の者が怠れば、戦場で背を向けたも同然ということになるな」


獰猛に笑いながら、岡部様は筆を執った。こうしてついに、二つ目の判を得た。

武功の誉れという言葉は、とうとう最後まで言わずに済んだ。


それから数日。

駿府館の書物蔵に、氏真が姿を見せた。


「圭。……評定の議題が、次々と通っていると聞いたが」


信じられないものを見るような目で、氏真は僕の手元にある書付の束を見た。

一枚ごとの末尾に、三浦、朝比奈、岡部——重臣たちの花押が、横一列に並んでいる。今川家で初めての連判状だった。

束の一番上を見て、氏真の指が止まった。


「……これは、二度裁かれたという、あの件か」

「はい。三度目を出しました」


先の二通は、どちらも誤りにしなかった。寺の分も国衆の分もそのまま生かし、その上に一枚を重ねる。境で分けるのをやめ、双方が共に入る地として引き直した裁許だ。

誰も、一度捺した印を引っ込めずに済んだ。


氏真は束をめくる手を止めた。


「……どうやって、皆に呑ませた」

「評定の前に、皆様に目を通していただいただけです。すべては事前に決まっておりますから、本番の評定は、ただそれを読み上げ、皆様が深く頷くだけになります」


氏真は呆然としたように口を半開きにした。


「……ならば、それは評定ではないな」


氏真は束を置いた。


「決めるのは、その前か」

「はい。手間はかかります。ですが、雪斎様がおられなくとも回ります」


稟議、と胸の中でだけ呼んだ。口には出さなかった。その言葉がどこの言葉かを訊かれたら、答えようがない。

僕は泥で汚れた膝を払った。笑おうとして、うまくいかなかった。

氏真は書付の束を手に取り、その花押を指でなぞった。そして、張り詰めていた糸が切れたように、その場にへたり込んだ。


「……そうか。回るのだな。我らだけでも、この国は」


氏真の肩が、小さく震えていた。天才の残した巨大な重圧から、彼がほんの少しだけ解放された瞬間だった。

やがて氏真は、へたり込んだまま、ぽつりと言った。


「圭。そなたがいてくれて、よかった」


それは、主君らしい労いでも、家臣への評価でもなかった。ただ、同じ重荷を知る者が隣にいてくれたことへの、素の安堵だった。

僕は、何と答えていいか分からなかった。嬉しかった。確かに、嬉しかった。だが同時に、その言葉の裏で、僕がこの国の行く末を知っていることを思うと、胸の奥が、鈍く痛んだ。

それでも——氏真の、ほんの少し軽くなった背中を見られた。今は、それで十分だった。


翌朝、書物蔵の文机に、僕が書いた覚えのない書付が一通、置かれていた。

末尾には既に、三つの花押が並んでいる。

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― 新着の感想 ―
リアルですねえ。歴史が好きで、知識チートの爽快感も好きなくせに、でも量産型には飽きてしまっている自分には、こういう葛藤劇は心地よいです。とても楽しませていただいています。
民主主義も、多数決のみに頼るようになったら終わり。これは昔から言われていることで、日本に限らず世界中で根回しが行なわれている訳ですが、潔癖性だと(なぜ間違った案に妥協しなくてはならないか、という意地で…
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