【第39話】誇りを翻訳する
氏真様の小姓が、書物蔵の戸口に立っていた。
「若君が、遠江の境の一件はいかがなりましたかと」
「……まだ、決まっておりません」
小姓は一礼して、何も言わずに帰っていった。三日前も、その前も、同じやり取りをしている。
僕は未決の山へ目を戻した。一番上に、二通の訴状がある。遠江の寺領の境をめぐる訴え。同じ訴えが二通、届け出た代官の名だけが違い、どちらの紙にも決裁済みの印が捺されている。
同じ境が、二度裁かれた。寺と国衆が、それぞれ自分に有利な裁許状を持っている。どちらも本物で、どちらも今川の印だ。
寺の使いが三度、国衆の使いが二度、書物蔵まで来ている。どちらも、決まったはずの話がなぜ動かぬのかと言う。決まっていないのではない。二度決まってしまったのだ。
朝比奈様には申し上げた。捺したものを蒸し返せば、捺した者の落度になる——そう言われて押し返された。岡部様も同じだった。誰の落度にする気か、と。
その下に、秋の普請の書付が埋もれている。人足の割り当ても、入用の按分も、先の評定から一寸も動いていない。
僕は筆を握ったまま、額を押さえた。
論点を絞り、数を並べ、賛成の数で決める。そう決めたのは僕だ。雪斎様の権威に頼らずとも国が回る形を作りたかった。誰が言ったかではなく、何が正しいかで決まる場を。
根回しを知らなかったわけじゃない。
現代の組織で、あれほど有名な作法もない。会議の前に話をつけ、判を順に集め、場では確かめるだけにする。僕はそれを、透明さを欠いた古い慣習だと思っていた。だから作らなかった。捨てたのだ、自分の手で。
息が詰まって、僕は町人地へ足を向けた。滞っている案件の裏を取るためだと、自分に言い訳をした。遠州屋には尾張筋の相場が入る。
暖簾をくぐると、土間で佐夜が駿河の地侍を相手にしていた。僕は邪魔にならないよう、店の隅に腰を下ろした。
「だから、この干物の値崩れをどうにかしてくれと申しておるのだ。常なら一枚十文の品が、今年は八文でも買い手がつかん。我らも食うていかねばならん」
「お侍様のお立場は、よく分かります」
佐夜は深く頭を下げた。だが、膝の上の帳面には、もう別の数が書き込まれている。
「ですが、いま値を釣り上げれば、尾張から安い品が入ってまいります。ここは遠州屋が、お侍様の品を特上として別に買い取らせていただきます。百のうち三十を、一枚十二文で」
「三十だけか」
「はい。残りの七十は、我らが一枚五文で引き受けます。特上の値は落ちません。落ちないまま、お侍様の銘で店に並びます。銘が立てば、来年の値も落ちません」
地侍はしばらく黙っていた。
「……七十を五文とは、足元を見ておらぬか」
「見ております」
佐夜は顔を上げずに言った。
「ですが、その七十を、我らは他国へ一枚九文で流します。運ぶのはこちらの船で、沈めばこちらの損です。お侍様は、一つも濡れません」
地侍は鼻を鳴らし、それから満更でもなさそうに膝を打った。
「……特上が三十、か。悪くはない」
地侍が上機嫌で帰っていくのを見送って、佐夜は箒を取りに立った。
「見てたでしょ」
「……ああ」
「あのお侍、百枚で七百十文。八文で売り切れていれば八百文よ」
「……九十文、少ない」
佐夜は土間の埃を掃き出しながら、こちらを見もしない。
「でも、喜んで帰ったでしょう」
それだけ言って、佐夜は奥へ入っていった。
僕は湯呑みを持ったまま、しばらく動けなかった。
値切られた側が、喜んで帰る。損をした者が、得をした顔で門を出ていく。何かが指先に引っかかって、掴めない。
館に戻る道の途中で、僕は足を止めた。
行き先を変える。書物蔵ではない。
三浦様の屋敷だった。
三浦正俊。氏真様がまだ龍王丸と呼ばれていた頃からの傅役で、あの評定の場にも列していた人だ。朝比奈とも岡部とも派を異にし、あの日、最後まで一言も発さなかった。
縁側に通された僕は、単刀直入に尋ねた。武士の誇りとは、どうすれば保たれるのですか、と。
三浦様は茶をすすり、庭の松を見た。
「誇りとは、形にするものだ」
低い声だった。
「目に見えぬ。見えぬからこそ、誰もが目で見て分かる形を欲しがる」
「形、ですか」
「朝比奈殿も岡部殿も、あの二通が同じ訴えだということは百も承知よ。だが、人の並ぶ前で己の捺した印を誤りと認めれば、それが負けという形で残る。腹の虫の話ではない。家の値打ちが下がるのだ」
指先の引っかかりが、音を立てて外れた。
大勢の前で申し開きをさせ、数で決める。僕が最も正しいと信じていたその形こそが、あの人たちの誇りを削る刃だった。
「では、どうすれば」
「評定に出す前に、話をつけよ」
三浦様は茶碗を置いた。置いた手が、少しだけ止まった。
「裏で手を回し、相手の顔を立て、落としどころを先に探る。評定とは、決まったことを皆で押し戴く場よ。決めるのは、その前の廊下と、茶室だ」
根回し。そして、稟議。
僕は自分の浅はかさを恥じた。知らなかったのではない。知っていて、古い慣習だと決めつけて捨てた。天才のいない組織を回していたのは、数字の正しさではなく、人の誇りを翻訳する手間のほうだったのに。
「三浦様。もし僕が各家の間に立ち、顔を立てる文面を作りましたら、その書状に……最初の判を、押していただけますか」
筆頭に判を捺すということは、その案が潰れたとき、最初に泥を被るということだ。
三浦様は、しばらく答えなかった。
「勘違いするな」
やがて、そう言った。
「お前のためではない。……若君は、この半年で二度、箸をつけぬまま膳を下げさせておられる。人前では、召し上がるがな」
僕は顔を上げた。
「あの方は、決まらぬのを己の不徳と思うておられる。決まらぬのは仕組みのせいだと、誰も申し上げぬからだ。……儂は、あの方が潰れるところを見とうない。それだけよ」
そして、口の端だけで笑った。
「右筆殿に、泥を被る覚悟があるのならな」
館に戻り、僕はすぐに筆を執った。
論点をまとめるだけの書付ではない。朝比奈の寄親としての格を立てる言葉を選び、岡部の負担を寄子への計らいという名目に置き換える。あの人たちが、自らの意思で今川のために譲ってやったと思える文面だ。
これを持ち回り、一人ずつ説き、判を集める。
気が遠くなるほど泥臭く、非効率で、誰の記録にも残らない仕事だった。
書付の束を抱えて、僕は朝比奈の屋敷へ向かった。
門前に、見慣れぬ履物が並んでいた。
取次の家人が僕の顔を見て、奥へ駆けていく。
戻ってこない。




