【第38話】空回りの歯車
同じ訴えが、二通。どちらにも、決裁済みの印が捺されている。
僕はその二通を懐に入れたまま、評定の間に座っていた。
弘治二年、春。雪斎という巨星が墜ちてから、数ヶ月が経つ。
義元公は三河の仕置きで岡崎に詰めていた。此度の評定は氏真が預かる。任せたというより、試している——岡部はそう言っていた。
その傍らで僕は墨をすり終え、真新しい紙の端に日付を書き入れた。
合議に詰めるのは五人。持ち回りで書付を読み、三人が賛成すれば印が押される。
「駿東の寺社領、境の確かめの件」
「先例帳の通りで構わぬ」
「某も異存はない」
「では、これで」
印が捺され、書付が次の山へ移る。半刻もかからない。
軽い案件なら、この仕組みは確かに動く。雪斎様が一人で抱えていた頃より、ずっと速い。
だが、寄親・寄子の面子や負担が絡んだ途端、歯車は空回りする。
議題に入る前に、僕は懐の二通を朝比奈の前へ滑らせた。
「朝比奈様。遠江の、寺領の境をめぐる訴えです。三日前に合議を通っております。届け出の代官の名だけが違いますが、中身は同じものです」
「ならば、どちらにも印が捺してあろう」
「はい。ですから、同じ境が二度裁かれております。寺と国衆の双方が、印の捺された書状を持つことになります」
「印は印だ」
朝比奈は書状を見もせずに押し返した。
「捺したものを蒸し返せば、捺した者の落度になる。誰の落度にする気か、右筆殿」
返す言葉がなかった。僕は二通を懐に戻した。
「……本日の議題は、遠江における秋の普請、その人足と入用の割り当てについてです」
僕は昨晩遅くまでかけて組み上げた案を読み上げた。
今度こそ、誰も損をしない形にしたつもりだった。
「石切り場から普請場まで、これまでは陸路で運んでおります。人足が担いで、三日。ですが天竜川の舟運を使えば、同じ石を一日で下ろせます。人足の延べ日数は、三分の一に減る」
書付を回す。数を並べた表だ。
「浮いた人足を、各家の持ち出しに応じて按分してお返しします。朝比奈様の御負担も、岡部様の御負担も、どちらも減ります。どなたからも取り上げません」
これは付け替えではない。総量そのものを削る案だ。
帳面の上では、誰一人として損をしない。
返ってきたのは、重々しい沈黙だった。
朝比奈泰能。遠江方面に強い影響を持つ重臣であり、泰朝の父にあたる人物だ。彼は腕を組んだまま、僕の書いた表をちらりと見下ろしただけで、鼻で笑った。
「右筆殿の言うことは、銭勘定としては正しかろう。だがな、それでは当家の面目が立たんのだ」
「面目、ですか」
僕は思わず筆の手を止めた。
「その舟は、誰の舟だ」
「……遠州屋をはじめ、湊の廻船問屋の船を借り受ける形になります」
「商人の船に石を積ませて普請を成したと、遠江中に知れ渡る」
朝比奈の指が、表の数字を叩いた。
「普請に人足を出すのは、寄親の役目よ。出す人数が、そのまま家の重さだ。それを商人の舟で肩代わりさせれば、当家は軽くなる。……軽くなった寄親の下知に、来年の陣で寄子どもが命を懸けると思うか」
数字の先に、戦場の絵があった。僕の表には、その欄がない。
「しかし、このままでは朝比奈家の御負担が大きすぎます。秋の収穫次第では兵糧の備蓄に影響が出ると、前の評定で申されておりました」
朝比奈は答えなかった。
代わりに、今度は岡部元信が口を挟んできた。
「右筆殿。人足を減らすと申されたな」
「はい。三分の一に」
「某の寄子どもは、普請に出ることで飯にありついておる」
顔を上げた。岡部は表を見ていなかった。僕を見ていた。
「遠江の国衆の多くは、某の寄子だ。春に種を蒔いて、秋までは食う当てがない。普請の人足役は、その間の口を凌ぐ手立てでもある。人足を減らせば、冬を越せぬ者が出る。……減らしてやったと言われて、喜ぶ者ばかりではないのだ」
言葉が出なかった。
「……三年前、三河の堤の普請では、朝比奈様も商人の舟をお使いになっています」
僕は書付の束から古い記録を抜き出した。二の矢のつもりだった。前例があるなら、面目の問題は立たないはずだ。
朝比奈は、今度は書付を見た。見て、押し返した。
「あれは御坊が申されたことだ」
低い声だった。
「雪斎殿が申されたゆえ、皆が従った。……貴殿が申すのとは、違う」
正しさで決まるのではない。誰が言ったかで決まる。
その壁が、はっきりと見えた。
「……では、決を採っていただけませんか」
僕は、最後の一手を出した。
「五人のうち三人が賛成すれば印が押される。そう決めたはずです。この案に賛成の方は——」
誰も、手を挙げなかった。
古参の庵原忠胤が、膝の上で数珠を繰りながら目を伏せる。残る二人は、そちらを見て、同じように伏せた。
挙げないまま、朝比奈が言った。
「数を数えて決めるのは、寄り合いの商人がすることだ」
上座の氏真が、わずかに膝を進めた。
何かを言おうとしたのだと分かった。だが朝比奈が視線だけをそちらへ向けると、氏真は扇子を握り直し、また膝を戻した。
口を挟めば、当主としての未熟さを露呈しかねない。この人もまた、この空気に押し潰されようとしていた。
「……右筆殿」
朝比奈泰能の声が、ふっと険を解いた。
「我らは数字を治めているのではない。人を、そして誇りを治めているのだ。雪斎殿は、その両方を見極める目を持っておられた」
何も言い返せなかった。
結局、その日の評定は何一つ決まらなかった。
「御屋形様へ上げるほどの案件でもありますまい」
朝比奈が、腰を上げながら言った。
「次の評定まで、各家で再考いたす。それでよろしゅうございますな、若君」
氏真は扇子を握ったまま、何も言わなかった。
割れた案件は御屋形様へ上げる。そう決めたはずだった。だが誰も、それを口にしない。沈黙を承諾と見て、重臣たちは渋々といった様子で立ち上がり、部屋を出ていく。
残されたのは、僕と氏真、そして山積みになった未決の書状と訴状だけだった。
僕は墨の乾いた筆を置き、深く息を吐き出した。頭の奥が鈍く痛む。
論点を絞り、数を並べ、賛成の数で決める。そうすれば、雪斎様の頭がなくても国は回るはずだった。
だが、僕の表には欄が足りなかった。
来年の陣で槍を出す者の気持ちを書く欄が。冬を越せない者の腹を書く欄が。
僕が作り、雪斎様の名を借りて立ち上げた「合議」という箱は、あの人の権威と恐怖があって初めて機能するものだった。その効き目が切れた今、残されたのは、自己保身と派閥の論理で足を引っ張り合うだけの寄り合いだ。
あの名を騙った僕自身が、いま、あの名の不在に殺されている。
決を採ってくれ、と僕は言った。右筆が。
「……すまんな、圭」
静寂の中、氏真がぽつりと呟いた。
名を呼ばれたのは、初めてだった。
「いえ。僕の進め方が悪かったんです。武士の意地というものを、計算に入れていませんでした」
「いや、お前は正しい。お前の描く仕組みは、恐ろしいほどに理にかなっている。だが……」
氏真は言葉を区切り、山積みの書類へと視線を落とした。
「人は、理だけでは動かぬ。雪斎殿は、その理を無理やり通すだけの力を持っていた。だが、私にはそれがない」
自嘲気味に笑う氏真の横顔を見て、胸の奥が冷たくなった。
僕の作った仕組みは、この人の重圧を和らげるどころか、「決断できない次期当主」という無力感を毎回突きつける装置になり下がっていた。
僕は懐から二通の訴状を抜き出し、未決の山の一番上に置いた。
同じ訴え、違う代官の名、同じ印。
誰も、この二枚が同じものだと気づかない。気づいても、誰の名も出ない。
——それが、僕の作った仕組みだった。




