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【第37話】遺された者

「——また随分と、背丈ほどもある紙の山が積まれているな」


大量の目録を抱え、薄暗い回廊を急いでいた時だった。

頭上から降ってきた声に、僕は足を止めた。


板張りの冷えが、足袋を通して膝まで這い上がってくる。吐く息が白い。それなのに、障子の向こうから漏れてくる重臣たちの言い争う声だけが、妙に熱を持っていた。

佐夜の茶の温もりは、もう胃の腑のどこにも残っていない。


顔を上げる。

白地の直垂の裾に、乾いた土埃がうっすらと付いていた。蹴鞠の跡だ。だが指先には墨の染みがある。それも、書き慣れた者の染み方だった。


今川氏真。


五年前、駿府館の広間で一度だけ見ている。義元の隣で、背筋だけをぴんと伸ばしていた十二、三の少年。知らない言葉が出るたびに小さく首を傾げ、それでも問い返す勇気はないようで、すぐに表情を引き締め直していた。誰もその子を見ていなかったのを、僕は覚えている。

あの子が、十七になっていた。


顔立ちは義元によく似ている。背丈も、もう父に近い。

ただ、その目の奥には、五年前にはなかったものが沈んでいた。眠れていない者の目だった。


「若君……」


僕は慌てて目録を床に置き、その場に平伏した。目録の一番上の紙が、板の上でかさりと滑る音がした。


「よい、面を上げよ」


静かな声だった。

顔を上げると、氏真は僕を見ていなかった。障子の隙間から漏れる声のほうへ、じっと耳を傾けている。棘のある声だ。誰が悪い、誰が先に言い出した——書付の中身ではなく、責めの向き先を決めるための言い合いだった。


「そなたはたしか、雪斎の傍らにずっと張り付いていた……あの妙な右筆だな」

「……はい。圭と申します」

「そうか。あの者たちが嫌々ながらも紙を捌いているのは、そなたが雪斎の名を持ち出したからだと聞いたぞ。見事な手際だ」


褒め言葉のはずのそれが、喉元に刃を当てられたように感じた。

あの紙片の余白に筆を入れたのは、僕だ。


だがその声は、褒めているのに、どこか遠くの出来事を語るように平らだった。


「だが、いつまでもつ」

「……と、仰いますと」


氏真はようやく僕の方へ向き直った。声を落とす。回廊に人影はなかったが、それでも誰にも聞かせたくない声だった。


「雪斎は死んだ。そして、父上も永遠ではない。いずれ私が、あの怪物たちが遺したこの巨大な国を背負わねばならぬ時が来る。その時、あの重臣たちが、大人しく私の言うことに従うと思うか」


僕は、返す言葉を見つけられなかった。


今の今川家の統治機構は、太原雪斎と今川義元という二人の常軌を逸した処理能力に、完全に最適化されている。

裏を返せば、凡人が同じように回そうとすれば、必ず破綻する仕組みだということだ。

それを、この人は誰に教わるでもなく理解していた。


「和歌も蹴鞠も、決して無駄なものとは思わぬ。人の機嫌の取り方も、座の作り方も、あれで覚えた」


氏真は袴の裾の土埃を指で払った。


「だが、それだけで家臣を従わせられるほど、この家は優しくない。……私には、雪斎のような神がかりの先読みの知恵もないし、父上のような、一瞥しただけで家臣を畏怖させる覇気もない。ただ、書を読み、人の話に耳を傾けることができるだけの、普通の男だ」


自虐のつもりだったのだろう。氏真は僕の方を見て、口の端だけで笑った。


「父上たちは、どうしてこうも綺麗に国を整えすぎてしまわれたのか。少し隙間があるくらいの方が、後を継いで残される者は、まだ息ができるというのに」


言ってしまってから、氏真ははっと口をつぐんだ。


「——今のは、聞かなかったことにせよ」


早口だった。耳の先が、わずかに赤い。

そこで初めて、この人が十七なのだと分かった。


弱音というより、静かな悲鳴だった。規格外の前任者の後を継がされる、真っ当に有能な常識人。

その姿に、僕は自分を重ねかけて——やめた。名門の跡取りが背負うものと、右筆風情が抱えている重さを、同じ秤に載せるのは失礼にあたる。

それでも、丸めた背中の形だけが、よく似ていた。


「商人も、重い帳面や蔵の鍵を抱えるわ。でもね、死んだ人間の重さなんか背負わない。そんなものを背負ってたら、船は沈むからね」


昨夜聞いたばかりの声が、耳の奥で鳴った。

これは僕の荷物ではない。口を開けば、また誰かの人生に指を突っ込むことになる。分かっていた。分かっていて、喉の奥がもう動いていた。


「……若君」


氏真が足を止める。


「雪斎様が最後まで気にしておられたのは、そこだと思うのです。——おひとりの頭に頼る国は、そのおひとりが倒れた日に止まる、と」

「……それが、あの重臣たちの合議の集まりか」

「今はまだ、雨が降れば崩れる、泥をこねただけの道です」


そこで一度、言葉を探した。約束はできない。約束していい立場でもない。


「ですが、道は人が通るほどに踏み固まると聞きます。若君が、雪斎様や御屋形様と同じであらねばならぬなどと、思わずに済む日が来るとすれば——そのときは、この泥道を踏んだ者たちのおかげでしょう」


氏真はしばらく黙っていた。

それから小さく、どこか安堵したように息を吐いた。


「……不思議な男だ。雪斎が死の直前まで、そなたをずっと傍に置いていた理由が、少しだけ分かった気がする」


そう言い残し、彼は白地の直垂を翻して、静かに廊下の奥へと消えていった。足音は、思ったより軽かった。


目録の山を抱え直す。障子の奥から、またしても責任を押し付け合う苛立った声が漏れてきた。

一番上の訴状に目を落として、僕は指を止めた。


見覚えがある。遠江の、寺領の境をめぐる訴え。三日前に合議を通って、印が捺されたはずのものだ。

めくる。同じ訴えが、もう一通あった。届け出た代官の名だけが違う。


どちらの紙にも、決裁済みの印が捺されていた。

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