【第36話】遠州屋の軒先で
見慣れた暖簾の前まで来たところで、僕は糸が切れたようにへたり込んだ。
立ち上がろうとして、視界の端が白く滲んだ。足に力が入らない。吐く息が、思ったより白い。もう暖簾を早じまいする時季になっていた。
廻船と両替を商う、遠州屋。その閉まりかけの店先で、僕は膝を抱えたまま動けなくなっていた。
板戸の隙間から、煮炊きの匂いが流れてくる。荏胡麻の油と、出汁の匂いだ。
その匂いを嗅いだ瞬間、腹が鳴った。自分でも呆れるほど大きな音だった。
「……ちょっと。うちの店先で行き倒れられると、明日の商売の縁起が悪いんだけど」
頭上から降ってきた呆れ声に、僕はゆっくりと顔を上げた。
佐夜が箒を持ったまま立っていた。僕を見下ろしたまま、掃いた埃をわざとこちらへ寄せてくる。
「……悪い。少しだけ、休ませてくれ」
「少しって、あんた。顔色が死人一歩手前じゃない」
佐夜は大きく溜息をつくと、僕の腕を掴んで無理やり立たせた。
「ほら、立てるなら裏へ回りな。暖簾の前を塞がれたら、明日の客が寄りつかない」
遠州屋の裏手にある土間で、僕は湯気を立てる大根の煮物を無言で口に運んでいた。
三日ぶりに、味のするものを食べた気がした。それだけで、全身の強張りが少しずつ解けていくのが分かった。
土間の奥から、表の軒先が見えている。吊るした干物が風に揺れて、通りを行く誰かの足音が、板一枚隔てた向こうを過ぎていった。
佐夜は僕の向かいに座り、帳面をパラパラと捲りながら、こちらを見ようともしない。
「……彦四郎さんは?」
佐夜が、帳面から目を上げずに訊いた。
「館で、書類の山と格闘してる」
「ふうん。二人揃って死にかけてるわけね」
「……あいつには、この顔は見せられない」
僕が仕組みを作った。動かしているのは彦四郎だ。あいつの前で潰れるわけにはいかない。
だから、足が勝手にこちらへ向いたのだと思う。
武家の面倒事には関わりたくない。彼女の態度は、商人の娘として極めて正しい。
あの海難事故の時、僕がうろ覚えの航海知識を口走って以来、佐夜は僕に対して「この男は何者なのか」という疑念を抱いているはずだった。深く踏み込めば火の粉を被る。だから距離を置いているのだと、僕は勝手に納得していた。
「……大きすぎるものを、背負ってしまった気がするんだ」
僕は、出汁の入った椀を見つめながら、誰に言うともなく呟いた。
「僕の背中には余る。でも、僕が背負わなければ……誰も背負おうとしない」
紙片の余白に、僕は自分の字で書いた。一人で背負うな、と。
雪斎様が遺した言葉ということにして、それを評定の間で読み上げた。あの部屋にいた全員を、僕はその一枚で縛り付けたのだ。
「武家の事情は知らないけど」
佐夜は帳面から目を離さず、淡々と言った。
「商人も、重い帳面や蔵の鍵を抱えるわ。でもね、死んだ人間の重さなんか背負わない。そんなものを背負ってたら、船は沈むからね」
「……」
「私たちが抱えるのは、明日の儲けと、生きてる人間の飯代だけ。それ以外は全部、海にでも捨ててしまえばいいのよ」
パラリ、と佐夜が帳面を捲る音が響いた。
腹の底が、温かかった。
「……この数、合わないのよね」
佐夜が帳面の端を指で弾いた。独り言のような調子だった。
僕は椀を置いて、横から覗き込んだ。
「……それ、月をまたいだ分が下に回ってるんじゃないか。上の欄と足すと、たぶん合う」
佐夜の指が止まった。
しばらく数字を追って、それから小さく舌打ちをした。
「……ほんと、あんた何なの」
「数字を見るのは、少しだけ」
「少しでこれなら、うちの番頭は何なのよ」
佐夜は呆れたように鼻を鳴らした。だが、僕が椀を空にするのを確認すると、そっと温かい茶を差し出してくれた。
「お代は出世払いでつけとくわ。利は月に三分ね」
「……高くないか」
「命が助かった代金よ。安いくらい」
そう言って差し出された湯呑みを受け取ろうとした時、僕の指先が、佐夜の手と軽く触れた。
「っ……あんた、手が氷みたいじゃないの」
佐夜が小さく息を呑む。だが彼女は湯呑みを離さなかった。左手で帳面を押さえたまま、空いた右手で僕の手を湯呑みごと握り込む。
指の腹が硬かった。荷縄と算盤の珠に擦れて、あかぎれの走った指だった。
「手が冷たいと、椀も持てないでしょ。これも貸しにしとくわ」
「……」
理屈をつけないと何もできない人なのだと思った。
それ以上は、何も考えられなかった。
佐夜はハッとしたように手を離すと、耳の端を少しだけ赤くして、そっぽを向いた。
「……茶が冷めるわよ。早く飲みなさい」
底冷えの忍び込む土間で、僕はただ温かい茶を啜り続けた。
また、ここに来てしまうかもしれない。そう思った。
* * *
男が帰ったあと、佐夜は土間の火をひとつ落とした。
椀は空だった。三日ぶりだと言っていたが、たぶん三日どころではない。あの食い方をする人間を、佐夜は何度か見たことがある。船が沈んで、身一つで浜に上がってきた者たちだ。
帳面を開き直す。さっき男が言ったとおりに足すと、数が合った。番頭が三日かけて見つけられなかった穴を、椀を持ったまま覗いただけで当てた。
海が荒れた日も、そうだった。あの男は湊の誰も知らないことを、当たり前の顔で口にした。
——あんたは、何者なの。
喉まで出かかって、佐夜はそれを飲み込んだ。訊けば、知ってしまう。知れば、店ごと巻き込まれる。父から譲られた船と蔵と、奉公人の十六人。それを秤にかければ、答えは決まっている。
だから佐夜は、訊かない。ずっとそう決めてきた。
それなのに、軒先で膝を抱えているのを見た時、追い返せなかった。
指先にまだ、氷のような冷たさが残っている。佐夜は自分の手を見下ろして、それから乱暴に前掛けで拭った。
佐夜は板戸を閉め、心張り棒をかけた。
それから、帳面の余白に小さく書き付けた。霜月朔日、掛け一つ。名は書かなかった。




