【第35話】亡霊の政治
「これは、雪斎様が死の直前に遺された、最後の御命令なのです」
止まった空気が、そのまま凍りついた。
朝比奈泰能の顔から冷ややかな色が消え、岡部元信の眉間に深い皺が刻まれた。誰も、息を吐く音すら立てなかった。
太原雪斎。
義元公を当主の座に押し上げた男の名は、死してなお、この部屋を支配していた。武士の面子も、派閥の論理も、その名の前では等しく無力になる。
(……許してください)
僕は内心で、あの怪物に向かって頭を下げた。
あの人は、合議の仕組みまで指定して死んだわけではない。一人で背負うな——あの問いを僕が勝手にそう読み、現代の仕組みへ翻訳して、政治の道具に持ち替えただけだ。
「……お待ちくだされ」
低い声を出したのは、朝比奈だった。
「その御命令、どこでお聞きした」
「臨済寺の、雪斎様の枕元で」
「誰がおった」
「……僕、一人です」
「証文は」
喉が塞がりかけた。
紙片はある。だが、あの余白に書き足したのは僕の字だ。畳の上に広げれば、嘘はその場で焼ける。
「……ございません」
朝比奈の目が、わずかに細くなった。
「証人もおらず、証文もない。死人の口を、生きた者が動かしておるとは考えぬのか」
「朝比奈殿の申される通りだ」
岡部が畳を睨んだまま続けた。
「だいたい、なぜ今になって持ち出す。雪斎様が身罷られて幾日経つと思うておる」
返す言葉がなかった。
本当のことを言えば、この場で終わる。嘘を重ねれば、いずれもっと大きな形で終わる。
僕はただ、畳の目を見ていた。
「——雪斎が、そう遺したか」
沈黙を裂いたのは、上座で扇子を弄っていた義元公だった。
その声音には、哀しみとも呆れともつかない響きがあった。義元公の視線が僕を射抜く。その目は、僕が死者の威を借りていることなど、とうに見透かしているようだった。
だが、義元公は僕を咎めなかった。
「朝比奈。証文がないのは、確かに軽い」
「は」
「だが、あの者が遺したという仕組みが、今この家に要るか要らぬか。それは証文とは別の話であろう」
朝比奈が、口を開きかけて閉じた。
「試さぬわけにはいくまい。朝比奈、岡部。数日、この圭という者の案に従うて、書付の整理を行うてみよ」
「……はっ。御意に」
重臣たちは渋い顔のまま平伏した。
今川家における初めての合議が、歪な形で動き出した。
翌日から、駿府館の一室に五人の重臣が詰めることになった。朝比奈も岡部も、その五人の中にいる。
僕と彦四郎が運び込む書付の山を、五人が持ち回りで読み、意見を突き合わせる。三人が賛成すれば印が押される。過半で決する、と決めた。割れて決まらぬ案件だけを、義元公の元へ上げる。
「三河の堤の修繕、これは高すぎやしませぬか」
岡部が算用の紙を指で弾いた。
「出し渋って国衆の反乱を招けば、堤の十倍は掛かり申す」
朝比奈が即座に返した。
「某は賛成に回る」
「……ふむ。ならば、仕方あるまい」
三人目の手が挙がり、印が押された。書付は次の山へ移された。
割れたのは、遠江の寺領争いだった。
「先例帳に同じ裁きがある。雪斎様の朱筆では、双方の年貢負担を据え置き、境界だけを改めておられる」
「その先例は、寺が焼ける前のものだ。今の寺に、据え置きの年貢が納められるか」
「納められぬなら、寺を潰せと申されるか」
「某はそうは言うておらぬ」
賛成が二、反対が二。最後の一人は腕を組んだまま、とうとう口を開かなかった。
半刻が過ぎ、誰かが舌打ちをした。
「……上げるほかあるまい」
その一件だけが、義元公の元へ回された。
部屋の中は常に殺気立っており、互いを牽制し合う視線が飛び交っていた。だが、人数で割り、役目を分け、一定の数が賛成すれば先へ進むというその仕組みは、彼らの感情を無視して機械的に稼働した。どれだけ不本意であろうと、三人が賛成すれば印が押され、書付は次へ流れていく。
義元公の元へ上がる書付は、十分の一に減った。
義元公はその報告を聞き、ただ一言「続けよ」とだけ命じた。その声音には、安堵よりも、何かを見極めるような硬さがあった。
四日目には、書付の文字が二重に見えるようになっていた。
墨の匂いが鼻の奥に貼り付いて取れず、舌の上にまで滲んでくる。誰かが読み上げる声を聞きながら、自分が今どの案件の紙を繰っているのか分からなくなることがあった。
「なるほど……不愉快極まりないが、政は回るな」
夕刻、腕組みをした岡部が、減っていく書付の束を見ながら忌々しげに吐き捨てた。
「某一人の裁定ではない。合議で決まったことだと言い訳が立つ。これなら、他派閥から直に恨まれることは少ない」
僕の胃は、鉛を呑み込んだように重くなった。
——恨む者は必ず誰か一人の名を探す。印を押した者、口を開いた者、沈黙した者。
朝比奈殿は、そう言って合議を退けたのだ。その同じ理屈で、いま岡部殿はこの仕組みを歓迎している。名を探されずに済む場所が、ようやく見つかったからだ。
今はまだいい。だが、他国への侵攻や大規模な反乱といった、誰も逃げられない決断を迫られた時——。
いずれ必ず弾ける火種を抱えながら、それでも今は、目先の麻痺をどうにかするしかなかった。
立ち上がろうとして、膝が畳を掴み損ねた。
「……圭」
いつの間にか隣に来ていた彦四郎が、僕の顔を覗き込んだ。
彦四郎自身の目も真っ赤だった。それでも彼は、僕の前に積まれた書付を無言で自分の方へ引き寄せた。
「三日、まともに寝てないだろう。あとは俺が見ておく。少し外の空気でも吸ってこい」
「……悪い。そうさせてもらう」
僕はふらつく足取りで、駿府館を出た。
風の匂いが、昼のものから夜のものに変わっていた。火照った頬を、冷たい風が撫でていく。
(僕は、なんてことをしてしまったんだ)
死者の口を動かし、その威で武士たちを縛った。卑しいと思っていたことを、僕は自分の手でやった。
体から力が抜けていく。膝から下が自分のものでないように頼りない。どこかで倒れ込んでしまいたかった。だが、武家屋敷の並ぶこの通りには、僕が座り込める場所など一つもなかった。
塀と門と、閉じた蔀戸。どの家も、中に誰がいるのか外からは分からない。
ふと、風向きが変わった。
埃と、油と、煮炊きの匂いがした。
死んだ人間の匂いのしない場所が、この町にはまだある。
気がつけば僕の足は、武家地を抜けて、その匂いのする方へ向かっていた。




