【第34話】一人で背負うな
駿府館の書物庫は、わずか半月で異臭を放ち始めていた。
半月前まで、この部屋は今川で最も整った場所だった。棚の順も、紐の結び方も、雪斎の指の癖のまま揃っていた。
匂いの正体は、僕たち自身だった。何日も蔵に籠もりきりで、湯を使う暇もない。膳はここへ運ばせ、食い残した椀が隅に重なったまま下げられていない。人の汗と饐えた飯の匂いが、埃と墨に混じっていた。
「……だめだ、もう何がどこにあるのかすら分からん」
埃まみれの床に座り込み、彦四郎がうわ言のように呟いた。その目の下には、くっきりと濃い隈が張り付いている。
「岡部様は朝比奈様に回せと言う。朝比奈様は御屋形様に伺えと言う。……で、全部ここに戻ってくる」
書状の束、封を切られぬままの目録、貢物の荷札。床から天井まで、紙と荷が積み上がっている。
義元は並の当主より遥かに有能だ。それでも、一人が裁ける量には限りがある。
「彦四郎。このままじゃ、本当に国が傾くぞ」
僕は埃を払いながら、一枚の紙片を見つめた。雪斎様が死の淵で遺した問いを、忘れないように書き留めたものだ。
『わしの目が塞がった後、その盤面をどう動かすか』
あの人は答えを言わなかった。だが、問いの形そのものが答えだったのだと思う。
いつだったか、僕が「すべてが一人を通りすぎています」と口走った時、あの人は薄々そう思っていたと認めた。だが代わりがおらぬ、とも言った。自分が築いた仕組みの弱点を誰よりも正確に知っていて、直せないまま死んでいったのだ。
その人が、最期に盤面を託した。同じ形で建て直せという意味であるはずがない。
——わしの代わりを、一人で背負うな。
紙片の余白に、僕は自分の字でそう書き足した。あの人は、一度もそう言っていない。それでも、あの問いはそういう意味だと、僕は受け取った。
「……仕組みを、作るしかない」
「仕組みだと?」
「あの方の頭は、人間のものじゃなかった。だから、あの方と同じことを一人の人間に求めてはいけないんだ。御屋形様であっても、氏真様であってもだ」
僕は筆を取り、白紙の束を引き寄せた。
「雪斎様が一人で担っていた重さを、複数の柱で支える形に作り変える。……『合議制』だ」
「柱、とは」
「重臣を五人ほど選んで、政務の窓口にする。持ち回りで書付に目を通して、突き合わせて決める」
「割れたらどうする」
「割れた分だけを御屋形様へ上げるんだ。それなら、御屋形様の手元に来る数は十分の一で済む」
「……なるほど。理屈は通っている」
彦四郎は僕が書いた図解を見て、少しだけ目を細めた。
「だがな、お前さんは武士という生き物を分かっちゃいない」
理屈が通っているなら、通せるはずだ。
その時の僕は、本気でそう思っていた。
その言葉の意味を、僕は翌日の評定の間で嫌というほど思い知らされることになった。
* * *
「馬鹿げている!!」
評定の間に響き渡った怒声に、僕は思わず身を縮めた。
火鉢の炭は熾っているのに、板敷から這い上がる冷えが膝を刺していた。
上座に座る義元の御前で、今川家の重臣である岡部元信が、僕の提出した書付を畳に叩きつけていた。
「我ら重臣が車座になり、話し合いで事を決めろだと? 商人の寄り合いじゃあるまいし、ふざけるな!」
「お待ちください、岡部殿。これは御屋形様の御負担を減らすための——」
「黙れ! 右筆風情が、侍の政に口を挟むな!」
岡部は書付を指さした。
「だいたい、その車座とやらは誰が集める。使番を走らせ、判をもらい歩くのは誰だ。書付が回るたびに、我らは在所の差配を放り出して駿府へ出てこいと申すか」
その怒声には、僕個人への侮蔑というより、今川の政を軽く見られたと感じた武士の怒りが滲んでいた。
隣に座る朝比奈泰能も、冷ややかな視線を僕に向けていた。
「圭とやら。お主の言う合議とやらで、もし三河の国衆と遠江の国衆の領地争いを裁いたとしよう。我らのうち、誰がその責任を取るのだ?」
「それは……合議に参加した全員で、連帯して負うことに……」
「阿呆め」
朝比奈は吐き捨てるように言った。
「我らにはそれぞれ、庇護している寄子がおり、縁戚がいる。もし某が遠江の者に不利な裁定を下せば、遠江の国衆は某を恨むだろう。逆に有利な裁定を下せば、三河の者から『朝比奈は遠江贔屓だ』と糾弾される。……合議で決まった、などと言っても、恨む者は必ず誰か一人の名を探す。印を押した者、口を開いた者、沈黙した者。いずれかを敵と定めねば腹が収まらぬのだ」
その言葉に、他の重臣たちも深く頷いた。
喉が塞がりそうになるのを、無理やりこじ開けた。
「……では、伺います。これまで御家中の恨みは、すべて雪斎様お一人が引き受けておられました。あの方が亡くなられた今、その恨みは、誰が受けるのですか」
朝比奈の眉が、わずかに動いた。
「……だから困っておるのだ」
低い声だった。怒鳴り返されるより応えた。
岡部が畳を睨んだまま言った。
「雪斎様が裁定を下せたのは、あの方が誰の身内でもない僧侶であり、同時に御屋形様の師という絶対的な権威を持っていたからだ。我ら家臣同士で裁定を下し合えば、必ず禍根が残る。徒党を組み、足の引っ張り合いになるだけだ!」
岡部の言葉は、現代人の僕から見てもぐうの音も出ないほど正論だった。
仕組みは、完璧なはずだった。だが、それを動かすのは人間だ。
彼らをこの仕組みに座らせ、動かすだけの強制力が、今の僕には欠けていた。
(……どうすればいい)
冷や汗が背中を伝う。
扇子が膝を打つ音だけが、ひとつ、またひとつと間を置いて響いた。義元は僕を助けもしなければ、重臣たちを制しもしない。
重臣たちの敵意を含んだ視線が、僕一人に突き刺さっていた。
このままでは、合議制は導入すらされずに潰される。
今川家は再び決裁の泥沼に沈み、遠からず内部から瓦解するだろう。
それを防ぐには——。
(使うしかないのか)
大学にいた頃、僕は偽文書を軽蔑していた。故人の名を借りて後から作られた命令書や譲状を、史料として最も卑しいものだと思っていた。書いた人間は、自分の都合のために死者の口を動かしたのだと。
いま、僕がやろうとしているのは、それだ。
死んだ人の名を借りて、自分の考えを通す。しかも五百年後の史料批判にすら、決してかからない嘘を。
一人で背負うな、と自分で書いた。そのそばから、僕は一人で背負おうとしている。
書付を叩きつけた岡部の横顔が見えた。怒鳴った直後、言い過ぎたとでも言いたげに、一瞬だけ眉が動いている。その表情に、僕は覚えがあった。安倍川の餅を分けてくれた、あの人の好い若武者の名残が、まだ厳しい重臣の顔の下に残っていた。
これから僕は、その人を騙す。
「……雪斎様は、こうなることを見越しておいででした」
僕の低い声に、評定の間の空気がピタリと止まった。
岡部も朝比奈も、そして上座の義元さえもが、僅かに目を見張って僕を見た。
口の中が、砂を噛んだように乾いていた。
「これは、雪斎様が死の直前に遺された、最後の御命令なのです」




