【第31話】彦四郎の描く線
「……ちがう。ここが下がるなら、こっちはもっと跳ねるはずだ」
臨済寺の書物庫の床一面に、大量の紙が広げられていた。
彦四郎は四つん這いになり、目の下に深いくまを作ったまま、紙の上に墨で無数の「点」を打ち、それを「線」で結んでいた。
「彦四郎。お前、昨日から何も食べていないんじゃないか?」
「邪魔をするな、圭。今、大事なところなのだ。数字の羅列を眺めていても見えないものが、こうして線を引くと見えてくる」
彼の周囲には、遠江や三河、甲斐から集められた商取引の帳簿や、気候の記録が山のように積まれている。
僕はため息をつきながら、彼が床に広げた紙を覗き込んだ。
そして、絶句した。
紙には、縦と横に等間隔の目盛りが引かれていた。横は「月日」、縦は「銭の額」あるいは「升の数」。そこに打たれた点が、波打つような一本の線で結ばれている。
(……グラフだ)
折れ線グラフ。現代人にとっては空気のように当たり前の表現技法だが、少なくとも、僕が学んだ歴史では、こうした統計の図示が一般化するのははるか後の時代だったはずだ。
目の前の戦国時代の青年は、膨大な数字を可視化するという執念だけで、この概念を自力で生み出してしまったのだ。
「これを見ろ、圭」
彦四郎は血走った目で、二枚の紙を並べてみせた。
「こっちは過去五年の『駿府の米価』の動き。こっちは安倍川上流の『井川の水位』の記録だ。二つの線を重ねてみろ」
言われた通りに線を辿る。水位の線が異常に下がった(渇水した)記録がある。そして、そのちょうど半年後、米価の線が急激に跳ね上がっている。
「……水が減った半年後に、必ず米が上がる」
「そうだ! なぜかは分からん。だが、二つの無関係に見える記録は、半年という時を隔てて完全に連動しておるのだ。これなら、水位の線を見れば、秋の米価がどう動くか事前に分かる!」
僕は鳥肌が立つほどの衝撃と、純粋な畏敬の念を抱いた。
無関係に見える二つの記録の間に、隠れたつながりを見つける。現代の統計学で言うなら、相関関係の発見だ。それを彼はたった一人で、指導者もなく、生の記録の山から見つけ出している。僕が大学の講義室で教わったことを、彼は己の知性だけで切り拓いていた。
「すごいよ、彦四郎。お前は本物の天才だ」
「ふんっ、分かりきったことを。……だが、まだ線が足りん。次の記録を——」
言いかけた彦四郎の体が、ぐらりと傾いた。
「彦四郎! ……くそっ、とにかく何か胃に入れないと」
僕は急いで書物庫を飛び出し、寺の台所(庫裏)へと駆け込んだ。しかし、そこには釜と薪があるだけで、現代のガスコンロなど当然ない。僕は竈の前に立ち尽くした。火の熾し方も、羽釜の使い方も分からない。歴史の知識はあっても、生活能力という点では僕は全くの無力だった。
「……何してんの、圭さん?」
途方に暮れる僕の背中に、不思議そうな声が降ってきた。
振り返ると、遠州屋から寺へ納める味噌と油の確認で来ていた佐夜が、庫裏の土間から顔を出していた。事情を説明すると、彼女は吹き出した。
「あははっ! 今川の難しい法や計算をすらすら解く圭さんが、竈の前で固まってるなんてね。意外とどんくさいところあるんだ」
「笑い事じゃない。彦四郎が餓死しそうなんだ」
「はいはい。私が握り飯を作ってあげるから、ちょっと待ってて」
佐夜は手際よく火を熾し、残っていた冷や飯を蒸し直した。
「普通に塩で握るだけでいい?」
「いや、待って」
僕は台所の棚にあった小瓶に目を留めた。精進料理に使うであろう胡麻油と、すり鉢に入った炒り胡麻だ。
「この胡麻油を数滴だけ飯に垂らして、塩と胡麻と一緒に混ぜ込んでみてくれないか」
「ごま油を飯に? ……そんなの、油っこくて食べられないんじゃない?」
半信半疑の佐夜だったが、言われた通りに混ぜて三人分の握り飯を作った。途端に、香ばしい胡麻の香りが台所いっぱいに広がる。佐夜は目を丸くした。
「なにこれ……すごくいい匂い。圭さん、あんたほんとに何者なの?」
「ただの右筆だよ」
僕らは出来立ての握り飯を書物庫へ持ち込んだ。
「いらん。圭が考えた得体の知れない飯など食えるか」
「線は逃げないわよ、さっさと食べな」
佐夜が強引に彦四郎の口に一つ押し込んだ。僕も自分の分を手に取り、大きくかぶりつく。
彦四郎は渋々といった様子で咀嚼し——ふっと動きを止めた。
「……うまいな」
「でしょ。素直じゃないんだから」
ごま油のコクと塩気が効いた握り飯は、空腹だった僕の胃にもじんわりと染み渡るように美味かった。極限まで頭を酷使していた彦四郎には尚更だったはずだ。
彦四郎がぶつぶつと文句を言い、佐夜が軽口で返し、僕がそれを宥める。三人揃って顔を突き合わせるのは初めてのはずなのに、この凸凹な掛け合いは妙に居心地が良かった。南蛮船の恐怖や、歴史の残酷な定数を前にして張り詰めていた僕の心が、この温かい時間の中で少しだけ解れていくのを感じた。
「ほう。ずいぶんと奇妙な絵を描くものだ」
不意に、背後から落ち着いた声が降ってきた。
振り返ると、そこには雪斎が立っていた。政務の合間の息抜きなのか、供も連れずふらりと書物庫まで足を伸ばしてきたらしい。
彦四郎が慌てて握り飯を飲み込み、むせながら平伏する。僕と佐夜も慌てて居住まいを正した。
雪斎はそれを手で制すると、床に広げられたグラフの線に目を落とした。少しの間沈黙し、その意図を正確に読み取ったのか、ほうと低く息を吐いた。
「……なるほど。水位と米価の連動か。これならば、秋の収穫期を待たずとも飢饉の予兆を捉え、他国から米を買い入れる手立てが打てる」
「は、はい。まだ思いつきにございますが……」
「面白い小僧を拾うたな、圭」
そう言って、雪斎の口の端が、わずかに上がった。
それが笑みだと気づくのに、少し時間がかかった。この人がこんな顔をするのを、僕は初めて見た。冷徹な政治家としての顔でも、厳しい師としての顔でもない。有能な若者の成長を素直に喜ぶ、穏やかな顔だった。
「精が出るのは良いが、政は血肉を持つ人間がやるものだ。己の身を削りすぎるなよ」
短く言い残し、雪斎は背を向けた。
その足取りはいつも通りに見えたが、書物庫を出る直前、ほんの一瞬だけ彼が戸枠に手を添えて体重を支えたのを、僕は見逃せなかった。誰よりも身を削ってきた男の、隠しきれない衰えだった。
雪斎はゆっくりとした足取りで去っていく。
「おい、見たか圭! 佐夜殿! 御師匠様が私の線を褒めてくださったぞ!」
興奮冷めやらぬ彦四郎と、それを見て呆れながらも笑う佐夜。
書物庫には、再び温かく賑やかな日常の空気が戻ってきた。僕も二人に合わせて笑みを浮かべた。
だが、心臓の奥底には、鉛のような冷たいしこりが沈んでいた。
先ほどの雪斎の後ろ姿。あの大きな背中が、来年には永遠に失われてしまう。
この愛すべき天才も、彼が引いた新しい時代の線も、すべては雪斎という大木の陰で、ようやく根を張り始めた若木に過ぎないのだ。
(……時間が、ない)
温かい飯の味を噛み締めながら、僕は誰にも言えない孤独の中で、終わりゆく日常の景色をただ目に焼き付けていた。




