【第32話】怪物の真意
臨済寺の奥にある雪斎の私室には、常に苦い薬草の匂いが漂うようになっていた。
秋の風が少しずつ冷たさを増す中、雪斎が政務室に出る時間は目に見えて減っていた。家臣たちには「大事を取っての養生」と説明されているが、側仕えとして付き添う僕の目には、その巨体が日増しに削り取られていくのがはっきりと分かった。
「……甲斐からの返書はそれだけか」
「はい。武田晴信公より、塩の融通についての謝辞と、来春の同盟の約定遵守を誓う旨が記されています」
夜更け。明かり取りの行灯が揺れる中、僕は床に臥せったままの雪斎に文を読み上げていた。
何度か短く咳き込みながらも、雪斎は目を閉じたまま首を微かに縦に振った。
「晴信は信用できん男だが、計算はできる。武田の背後を脅かす長尾との争いが泥沼化する限り、駿河に刃を向ける愚は犯すまい」
「……はい」
「次は、北条からの書状を読め。氏康め、また何か難癖をつけてきているはずだ」
指示を出し終えると、雪斎は深いため息をつき、静かに目を開けた。
そして、書状を開こうとした僕の手元ではなく、僕の顔をじっと見据えた。
「圭。お主は、わしがなぜ今まで、一度もお主の素性を問わなかったのか、不思議に思ったことはないか?」
唐突な問いに、僕は息を呑んだ。
手に持っていた北条からの書状が、微かに震えてカサリと音を立てる。
(気づかれている……?)
僕が五百年後の未来から来た人間であり、彼らがこれから辿る歴史の結末をすべて知っているという異常な正体を。雪斎の眼光は、病を得てなお、僕の魂の底まで見透かすように鋭かった。
沈黙する僕を見て、雪斎はふん、と鼻を鳴らした。
「怯えるな。お主がどこの馬の骨で、どんな術を使って今の知識を得たのかなど、わしにはどうでもよいことだ」
「どうでも、よい……?」
「わしは僧であり、政治家だ。人間が過去に何を背負っていようが、そんなものは燃え尽きた灰に過ぎん」
雪斎はゆっくりと身を起こし、行灯の光の中で僕を睨みつけた。
「大事なのは、お主が『何をもたらすか』だ。お主の知識は、この駿河の枠には収まらん。時に商人どもの理を解き明かし、時に南蛮の動きすら見通す。それが何処から来た知識であろうと、今川の利になるのであれば、わしはそれを使う。それだけのことだ」
「お前を信じている」などという温かい言葉は一言もない。ただ、僕の持つ異常な知識の価値を正確に計り、駒として徹底的に利用しているという宣言だった。
だが、その突き放したような言葉の裏に、僕は奇妙な安堵を覚えていた。素性も分からない異物を、己の眼力一つで傍に置き続けた雪斎の、彼なりの最大の「評価」なのだと分かったからだ。
「しかしな、圭」
雪斎の声が、一段低くなった。
「わしには、時間がない」
その言葉が、僕の胸を鋭く抉った。
一年。歴史の定数が正しければ、彼に残された時間はもう一年を切っている。
雪斎自身も、自分の体が確実に死へと向かっていることを、完全に悟っていた。
「わしがいなくなれば、駿河はどうなる? 武田と北条はどう動く。それを抑え込むべき義元公の御心は、どの方角を向く」
「それは……」
「言え。お主のその『目』には、わしの死んだ後の世がどう見えている」
残酷な問いだった。
僕は歴史を知っている。雪斎が死んだ後、今川家は最大の歯車を失って迷走し、やがて桶狭間で信長という破壊者に首を討たれる。駿河は武田に侵略され、滅びるのだ。
だが、それをどうして目の前の男に言えるだろうか。彼が文字通り己の血肉を削って築き上げたこの国が、無残に崩れ去るなどと。
言えば、この男は信じてしまうかもしれない。そして、その未来すら盤面の駒にして、動かし始める。それが、たまらなく怖かった。
「……分かりません」
僕は床に視線を落とし、絞り出すように答えた。
「ただ、これだけは言えます。御師匠様がいなくなれば、三国同盟の均衡は崩れます。強固に見えるこの国は、外からの圧力に耐えきれなくなる」
雪斎は何も言わず、ただ僕の言葉を聞いていた。
「……だから、休んでください。今川には、まだあなたが必要なんです」
感情が溢れそうになるのを必死に堪えながら、僕は懇願した。
だが、雪斎はただ短く、呆れたように息を吐いた。
「たわけが。人間はいずれ死ぬ。わしの死ごときで揺らぐような国であれば、元よりそれまでのことだ」
雪斎は再び床に体を横たえ、目を閉じた。
「お主は、わしの築いた盤面を傍でずっと見てきたはずだ。わしの目が塞がった後、その盤面をどう動かすか。……せいぜい、頭を絞っておけ」
それは「お前を頼りにしている」というような優しいものではない。
死の淵にあってなお、今川の未来という途轍もなく重い荷を、容赦なく僕の肩に投げ落とす言葉だった。
その不器用でそっけない、呪いにも似た継承に、僕は言葉を返すことができなかった。
「さあ、早く北条の書状を読め。夜が明けるぞ」
急かすような雪斎の低い声が響く。
手取り足取り、何かを教わったことなど一度もない。僕はただ、この怪物の傍らで、情を排し利を冷徹に計算する『本物の政治』を見せつけられてきただけだ。だが今、彼は己の死すらも盤面の駒とし、その残酷な視座を僕に引き継ごうとしている。
僕は書状を開きながら、自分が紛れもなくこの怪物の弟子となってしまったことを悟り、誇りと、そして途方もない恐怖に震えていた。




