【第30話】命の定数
その日、臨済寺の書院にはいつもと変わらぬ静謐な時間が流れていた。
開け放たれた縁側からは、初夏の濃い緑の匂いが漂ってくる。雪斎は上座にどっかと座り、各地の国衆から届いた書状を猛烈な速度で読み流しながら、次々と冷徹な決裁を下していた。
「遠江の天野には、一族内の所領争いは惣領に理ありと裁定してやれ。代わりに兵の動員数を一割増やせと書き添えよ。嫌とは言えぬはずだ」
「はっ」
「甲斐の塩の相場はどうなっている。遠州屋からの報告は」
「はい、予定通り、富士川沿いの荷の道は遠州屋を通じた問屋衆が押さえております」
僕は手元の紙に素早く墨を走らせながら答える。
雪斎の頭脳は相変わらず澄み切った刃のように鋭かった。三国同盟を成立させ、武田の兵糧の首根っこを押さえ、駿河を黄金期へと導く巨大な柱。この男がいれば、今川家は磐石に見える。
だが、その異変は唐突に訪れた。
「次は三河の……ごほっ」
指示を出そうとした雪斎の言葉が、短い咳に遮られた。
最初は、ただむせただけかと思った。しかし、咳は止まらなかった。
「ごほっ、がはっ……!」
それは、肺の奥から何かを引き剥がすような、重く湿った咳だった。雪斎の大きな体が、発作に合わせて大きく前後に揺れる。彼は口元を太い手で覆い隠したが、その隙間から漏れる息は明らかな喘鳴を伴っていた。
「御師匠様!」
控えていた僧の一人が慌てて駆け寄る。雪斎は片手でそれを制止しようとしたが、その手が微かに震えているのを、僕は見逃さなかった。
咳の発作が治まるまで、ひどく長い時間がかかったように感じた。
すぐに今川家お抱えの医師が呼ばれた。
脈を診て顔色を窺った医師は、咳を鎮める漢方を調合させると、安堵したように息をついて頭を下げた。
「御案じなさることはございませぬ。連日の激務によるお疲れが出たのでしょう。数日、政務を離れてゆっくりと養生し、この薬湯を飲まれれば、すぐに元のお元気なお姿に戻られまする」
その言葉に、書院に張り詰めていた空気がふっと緩んだ。
僧たちも家臣たちも、みな一様に安堵の息をついている。
「疲れを知らぬ御師匠様も、さすがに働き詰めであられたからな」
「御歳も召されておるのだし、これを機に少し政務を緩められてはいかがか」
「そうさな。あの御方に限って、大事があるはずがない」
誰もが笑みを浮かべ、雪斎の無事を無意識のうちに信じ切っていた。彼らにとって、太原雪斎とは今川を支える不動の巨星であり、単なる病などで倒れるはずがないのだと。
だが、僕は笑えなかった。
周囲の安堵の声が遠ざかり、耳鳴りだけが頭の中で響いていた。
全身の血が凍りつき、筆を握る手が小刻みに震え始める。
違う。
休めば治るようなものではない。
僕の脳内にある「歴史の教科書」が、残酷な一行の記述を弾き出していた。
——太原雪斎。一四九六年生まれ。
——一五五五年(弘治元年)、死去。
今年が何年か。
一五五四年。三国同盟が結ばれた年。
つまり、あと一年だ。
医師の「休めば治る」という言葉は、彼らの希望的観測が言わせた気休めに過ぎない。歴史という冷酷な記録は、目の前にいる巨星が、来年には確実にこの世から消え去ることを宣告しているのだ。
息ができなかった。
これまで僕は、自分の助言が歴史を変えてしまうのではないかと怯えてきた。だが、それは思い上がりだったのかもしれない。
人間の小手先の知識や法制度など、歴史の持つ本当の暴力の前では、何の意味も持たない。
「寿命」という、絶対に変えられない歴史の定数。それが今、巨大な鎌となって、僕の目の前で雪斎の首にゆっくりと振り下ろされようとしている。
この男がいなくなれば、駿河はどうなる?
雪斎の絶妙な手腕で保たれている家臣や国衆たちの均衡は? 甲斐の武田や相模の北条との同盟は?
そのすべてを一人で背負っていた大黒柱が折れた時、この脆い砂上の平和は音を立てて崩れ去る。
「……何を呆けておる、圭」
低く掠れた声に、僕はびくりと肩を震わせた。
顔を上げると、咳き込んだ反動で少し顔色を悪くした雪斎が、僕を見据えていた。
その双眸に宿る光は、病を得てなお微塵も衰えていない。
だが、僕の蒼白な顔を見た雪斎の目が、ほんの一瞬だけ細くなった。
僕の怯えが、ただの主君の病を案じる心配ではないことを、見抜いたような目だった。
「わしは休まぬぞ。さあ、次の文を読め」
家臣たちが慌てて「御無理をなさらず」と止めるのを無視し、雪斎は再び書状の山に手を伸ばした。
僕は震える手で文を拾い上げながら、絶望の底に突き落とされていた。
周囲の誰も、この男が一年後に死ぬことを知らない。知っているのは、僕だけだ。
雪斎の朱筆が、再び紙の上を走り始めた。
いつもなら頼もしく聞こえたその音が、この時だけは、命を削る刃の音のように聞こえた。




