【第27話】破れる教科書
天文二十三年(一五五四年)。この年、東海道の歴史において極めて重要な外交協定が結ばれた。
甲相駿三国同盟である。
駿河の今川義元、甲斐の武田晴信、相模の北条氏康。長年にわたり国境を争い、血を流し続けてきた三つの大国が、互いの息女を嫁がせることで婚姻関係を結び、不可侵を誓い合った。これにより、今川は西の織田領へ、武田は北の信濃へ、北条は東の関東へと、それぞれ後顧の憂いなく勢力を拡大することが可能となった。
まさに、太原雪斎という傑物が描き出した外交の芸術と言うべき代物だった。
臨済寺の縁側で、春の陽射しを浴びながら、僕はそんな歴史の教科書のような文章を頭の中で反芻していた。
遠い国の出来事のようだった。三国同盟という言葉には血の匂いがない。何万という兵士が動くわけでもなく、ただ紙と墨と、姫たちの輿入れによって完結する巨大なパズル。教科書には「互いの息女を嫁がせ」と一行で書かれていた。だが実際には、それぞれに名があり、顔があり、故郷を離れる娘たちがいる。それでも、歴史学徒だった僕にとって、それは暗記すべき年号と結果の羅列でしかなかった。
僕は蚊帳の外にいる。
そう思っていた。
法や商売には首を突っ込んでしまったが、大国同士の外交となれば、一介の右筆に過ぎない僕が口を挟む余地などない。僕はただ、歴史が予定通りに進んでいくのを、特等席で眺めていればいいのだ。
「圭」
背後から声がかかり、僕はびくりと肩を揺らした。
振り返ると、庫裏の影から雪斎が歩み出てくるところだった。その手には、見慣れた碁石の入った碁笥が握られている。
「……御屋形様の元へはよろしかったのですか」
「同盟の骨子はすでに固まった。あとは使いの者が書状を行き来させるだけの退屈な時間よ」
雪斎は縁側に腰を下ろし、碁笥を横に置いた。
半年前、「次の問いに答える覚悟をしておけ」と宣言されてから、雪斎は何も聞いてこなかった。その沈黙が、ついに破られようとしていた。
「一つ、問う」
雪斎の声は静かだったが、逃げ道を塞ぐような重さがあった。
「甲斐の武田、相模の北条。わしが死んだ後、今川にとって真に恐れるべきはどちらだ」
僕は息を呑んだ。
同盟を結ぼうとしているまさにその最中に、どちらが将来の脅威になるかを聞いているのだ。
史実を知る僕にとって、答えは明白だった。義元の死後、今川との同盟を破棄し、駿河へ侵攻してくるのは武田である。武田の脅威が今川を滅亡へと追いやる。
だが、「史実だから」とは言えない。僕は論理を探した。この半年で僕が見てきた、駿府の市や遠州屋の商いの光景を総動員して。
「……甲斐の武田です」
「ほう。なぜだ」
「相模には海があり、豊かな関東の平野があります。北条は内政を固めるだけで国を富ませることができる。しかし、甲斐は山に囲まれ、海がない。塩も、豊かな土も足りません」
自分の口から滑り出る言葉が、かつて佐夜の店で塩相場について語った時の熱を帯びていくのを感じた。
「領土が貧しい国は、必ず外へ向かいます。同盟とは、味方を作ることではありません。敵を一時的に後ろへ回すだけの時間稼ぎです。武田がいずれ信濃を平らげ、それでもなお土地と海を求めた時、彼らの目は必ず南の駿河に向かいます。生きるための必然として」
言い終えてから、ひやりとした。
歴史の観察者でいるはずが、気づけば教科書の記述から一歩踏み出し、大国同士の生々しい利害の渦に足を踏み入れていた。
雪斎は少しの間、目を閉じていた。やがて、ゆっくりと頷いた。
「お前の見立ては、わしと同じだ。やはり甲斐が最も危うい」
雪斎は碁笥から白い石を一つ取り出し、手のひらで転がした。
「だからこそ、鎖を繋ぐのだ。武田の首に、決して抜けぬ鎖をな」
「……鎖、ですか」
「武田は海を持たぬ。ゆえに塩を持たぬ。塩がなければ人は生きられず、戦もできぬ。では、その塩はどこから入る?」
背筋に冷たいものが走った。
「駿河と、遠江です……」
「そうだ」
雪斎は白石を縁側の板目にパチリと置いた。
「遠州屋が近ごろ塩を抱え込んでおると聞いた。あの娘だけの勘ではあるまい。お前の入れ知恵であろう。そして半年前に発布した法により、今川の御用商人は他国との取引で強い保護を得た。証文が守られることで、遠州屋をはじめとする問屋は、ますます他国への流通網を広げている」
雪斎の言葉が、バラバラだったパズルのピースを無慈悲に繋ぎ合わせていく。
「これより、駿河から甲斐へ入る塩と物資の太い道を、今川の御用商人に握らせる。同盟の裏で、武田の兵糧の首根っこを、我が国の商人たちが押さえるのだ。武田が信濃で暴れれば暴れるほど、彼らは今川の塩に依存することになる」
息ができなかった。
あの日に僕が佐夜に教えた塩の知識。仮名目録追加の会議で僕が主張した商人保護の法。そして遠州屋の物流網。それらすべてが、今ここで、武田を経済的に絡め捕るための「鎖」として編み上げられていたのだ。
「お前の知恵が役に立ったぞ、圭。法と銭で他国の喉首を押さえる。これもまた、血を流さぬ戦よ」
雪斎は満足そうに微笑んだ。
その笑顔を見た瞬間、僕の頭の中にあった「教科書」が、音を立てて破れ去った。
甲相駿三国同盟は、決して遠い国の紙切れの約束などではなかった。
僕はただ、決められた筋書きをなぞっただけなのかもしれない。僕がいなくても、雪斎は同じ鎖を編んだのかもしれない。だが——僕が佐夜に教えた塩の理屈、僕が口走った法の条文が、この鎖の一部になってしまったことも、確かなのだ。筋書き通りだったのか、それとも僕が書き換えたのか。それすら、分からない。
蚊帳の外などではなかったのかもしれない。僕は最初から、雪斎の引く図面の中にいたのだろうか。
「……僕は、」
声が震えた。歴史学徒としての冷めた俯瞰など、もうどこにもなかった。
あるのは、自分が甲斐の人々の暮らしの喉元に、今川の指をかける仕組みに加担してしまったという、取り返しのつかない当事者としての生々しい恐怖だけだった。
「お前の目は、ずいぶん遠くまで見通しておる」
雪斎の静かな声が、破れた教科書の隙間から突き刺さる。
「甲斐が危ういと言い切ったその先に、武田と今川の行く末まで、お前には見えておるのだろう」
言葉が出なかった。
春の湿った風が、ひどく冷たく感じられた。僕はもう、安全な観客席にはいられないのだろうか。歴史の盤上に、いつの間にか自分の石が置かれている。誰が置いたのかすら、分からないまま。




