【第28話】共犯者の塩
甲相駿三国同盟の締結が駿府の町に触れ回られたのは、それから数日後のことだった。
町は祝祭の空気に包まれた。長年血を流し合った武田、北条との間に確固たる和睦が結ばれ、姫君たちの輿入れが決まったのだ。これでもう、国境の山や川で怯える必要はない。誰もが今川家の威光と平和の到来を喜び、市はいつも以上の活気を呈していた。
だが、その喧騒の中を歩く僕の足取りは、鉛のように重かった。
すれ違う人々の笑顔が、かえって胸を締めつけた。彼らは知らないのだ。この平和な同盟の裏で、武田の兵糧と命綱を今川の御用商人が握るという、息の詰まるような従属の鎖が結ばれていることを。
そして、その鎖の図面を引いた一人が、他でもない自分自身であることを。
遠州屋の暖簾をくぐると、土間は荷運びの人足たちでごった返していた。
半年前の難破の傷跡は、店先の賑わいの下に隠れていた。むしろ、新しい法による保護と、他国との取引拡大によって、遠州屋は以前にも増して活気づいている。
「そこ、濡らさないでよ! 塩がダメになる!」
帳場の奥から、佐夜のよく通る声が響いた。
彼女は手代たちに的確な指示を飛ばしながら、大福帳に次々と筆を入れていく。その横顔は生き生きとして、商いの喜びに満ちていた。
僕の姿に気づくと、佐夜は顔を上げ、小さく息をついた。
「いらっしゃい、圭さん。……ごめん、今日は少し待ってもらうかもしれない。北への荷が立て込んでて」
「北、ですか」
「うん。甲斐への塩だよ」
佐夜は事もなげに言った。
「同盟の話、聞いたでしょ? これから甲斐との行き来がもっと盛んになる。うちも、あっちの商人から塩の注文をどっさり受けてるの。甲斐の商人って、山の人だからか、塩の値切り方が妙に必死なのよ。あれじゃこっちも簡単に負けられないわ。圭さんが前に教えてくれたおかげだよ。あの時、塩を多めに抱えておいて本当に良かった」
屈託のない笑顔だった。
商売がうまくいき、店を立て直せたことへの純粋な喜び。僕への飾らない感謝。
その真っ直ぐな言葉が、刃となって僕の胸を抉った。
自分が甲斐へ送っているその塩が、ただの商売の品ではないということを彼女は知らない。
武田が他国へ兵を出せば出すほど、遠州屋をはじめとする駿河の商人への依存を深め、やがて抜け出せない泥沼にはまっていく。彼女が誇りを持って回している商いの歯車は、いつの間にか、雪斎が仕掛けた鎖の一つに組み込まれていた。
そして何より恐ろしいのは、彼女をその歯車に組み込んだのが、僕だということだった。
僕が塩相場の知識を教え、仮名目録の会議で商人保護の理屈を口走らなければ、佐夜がここまで深く、武田の喉元に指をかける仕組みに組み込まれることはなかったかもしれない。
僕は、何も聞かずに信じてくれた人を、無自覚な加害者にしてしまったのだ。
「……圭さん?」
不意に、佐夜の声が少し低くなった。
気づけば、彼女は筆を置き、不思議そうに僕の顔を覗き込んでいた。帳場の向かい側、この半年で定着した「決まった距離」から。
「どうかした? 顔色が悪いよ。……甲斐への荷が、何か気になるの?」
「……いや」
僕は咄嗟に、顔の筋肉を引きつらせて笑みを作った。
「何でもないです。ただ、店が忙しそうで、良かったなと思って」
「そりゃあね。嵐の借りは、きっちり銭で返すって決めてるから」
佐夜は得意げに笑い、再び大福帳に視線を落とした。
彼女の瞳に映っているのは、ただ真っ当な商いの数字だけだ。誰かを傷つける意図など微塵もない。
「……計算、手伝いますよ」
僕は帳場の反対側に座り、自分の前へ滑らせられてきた大福帳を引き寄せた。
数字を追っている間は余計なことを考えずに済む。それだけが救いのはずだった。だが今日は、紙に並ぶ甲斐向けの出荷数が、いちいち目に引っかかった。
佐夜は何も聞かない。僕も何も語らない。
ただ数字を追うだけの静かな時間。以前ならこの沈黙が安らぎだった。今は、言えないことが一つ増えた分だけ、少しだけ重い。
夕刻、遠州屋を出ると、表の通りを数台の大八車が北へ向かっていくところだった。
荷台に積まれているのは、筵に包まれた大量の塩だ。あの塩が富士川を遡り、山を越え、甲斐の国へと流れ込んでいく。
僕がいなくても、あの塩は甲斐に届いただろう。たぶん。
それでも、見送る足が動かなかった。




