【第25話】聞けない問い
嵐の浜辺から、そして仮名目録追加の会議から、数日が過ぎていた。
僕は遠州屋を訪ねた。
店の土間に入ると、番頭の弥兵衛が帳場の奥から顔を上げた。
「ああ、圭さん。今日も帳簿ですかい」
「ええ、佐夜さんに頼まれてたので」
「お嬢様は奥にいますよ。……ただ、今日はちょいと機嫌が読めねえんで、お気をつけて」
弥兵衛の忠告を背中で聞きながら、奥の帳場へ向かった。
佐夜は帳簿を広げて筆を走らせていた。僕に気づくと顔を上げたが、以前のような「また油を売りに来たの」という軽口はなかった。
「来たのね。そこに座って」
示されたのは、帳場の反対側だった。
以前は彼女のすぐ隣に座っていた。肩が触れそうな距離で、同じ帳簿を覗き込みながら数字を追った。それが僕たちの決まった形だった。
今日は違う。佐夜は帳場の向こう側に僕を置いた。間に大福帳が一冊、壁のように横たわっている。
「先月の仕入れ帳を整理して。読み上げるから」
佐夜は僕を見ずに言った。声が平坦だった。怒っているのでも、冷たいのでもない。ただ、以前あった揺らぎがない。商売相手に向けるような、きっちりとした仕事の声だ。
僕は黙って筆を取り、佐夜が読み上げる数字を書き写していった。
塩二百俵。米百五十石。畿内からの絹が三反。紙が十束。漆器の注文が二件。嵐で船を失った後、遠州屋は損害の穴を埋めるために仕入れの方針を見直している最中だった。
数字を書いている間は何も考えずに済む。
筆が紙の上を走る音と、佐夜の声だけが、静かな帳場を満たしていた。
ふと、佐夜の声が途切れた。
顔を上げると、彼女は帳簿に目を落としたまま、筆の先を宙に止めていた。
「圭さん、あんたは——」
そこまで言って、佐夜は唇を閉じた。
帳場に、大福帳の紙をめくる音だけが残った。
「……佐夜さん?」
「なんでもないわ。次、遠州の廻船問屋から届いた荷の分」
何事もなかったように続きを読み始める。
僕は黙って筆を走らせた。彼女が飲み込んだ問いの形を、僕は知っていた。お前は何者なのか。その問いに答える言葉を、僕はこの時代に持っていなかった。
昼過ぎに手代の一人が戻ってきた。清水の湊へ使いに出ていた若い男だった。
「お嬢様、湊の材木屋に船の見積もりを出してもらいました。それと、あちらの船頭衆が……」
手代はちらりと僕を見て、声を低くした。
「また例の噂をしてまして……」
手代はそこで口をつぐみ、またちらりと僕を見た。
空気が冷えた。
佐夜の筆が止まった。一瞬だけ、ほんの一瞬だけ、彼女の目がこちらを向いた。
その目を僕は知っていた。嵐の浜辺で、水夫たちを抱きしめた後にこちらを振り向いた時と、同じ目だ。感謝と、畏れと、もうごまかしの利かない疑念。
「余計なことを言わなくていいわ。下がりなさい」
佐夜は手代を追い払い、何事もなかったように帳簿に戻った。
だが、もう声は聞こえてこなかった。僕も筆を動かせなかった。
沈黙が落ちた。
帳場の向こうで、佐夜が黙って帳簿のページを繰っている。めくる音だけが規則正しく響いた。読んでいるのか、めくっているだけなのか、僕には分からなかった。
僕は、何か言うべきだった。あの日のことを説明するか、せめて言い訳をするか。だが何を言っても嘘になる。本当のことは言えない。嘘はもう通じない。言葉が一つもなかった。
佐夜は一度、帳場の脇に置かれた菓子包みに手を伸ばしかけた。
けれど、すぐにその手を戻した。
「……今日はここまでにしましょう」
佐夜が帳簿を閉じた。まだ日は高い。いつもなら夕暮れまで続ける作業を、彼女は途中で切り上げた。
「ありがとう、助かったわ」
その一言には、嘘がなかった。帳簿の手伝いには感謝している。それは本当だろう。だが、佐夜がこちらを見る目は、帳簿の向こう側にいる「得体の知れないもの」を測るような慎重さを帯びていた。
拒絶ではない。信頼でもない。
判断を保留したまま、距離だけを正確に保っている。そういう目だった。
「……また来てもいい?」
僕は立ち上がりながら聞いた。情けない声が出た。
「帳簿はまだ溜まってるわ」
佐夜はそれだけ答えた。
来てもいい、とは言わなかった。来なくていい、とも言わなかった。帳簿がある、という事実だけを差し出した。
店を出た。
通りに出ると、嵐の名残を含んだ湿った風が頬を撫でた。駿府の市は相変わらず賑やかで、人が行き交い、銭の音が鳴っている。何も変わらない日常の中に、僕だけが居場所を失っていた。
ふと、以前この店で佐夜と過ごした夕暮れのことを思い出した。
窓から差し込む夕日の中で、彼女が「大福、楽しみにしときなさいな」と笑った。あの時の僕は「ただの計算が早い男」だった。素性を聞かれず、深く踏み込まれず、乾いた実利の関係の中に安らぎがあった。
その場所を、僕は自分の手で手放した。
手放さなければ水夫たちは死んでいた。だから後悔はしていない。
だが、後悔がないことと、痛みがないことは違う。
臨済寺への坂を登りながら、僕は一度だけ振り返った。
遠州屋の暖簾が風に揺れていた。あの暖簾の向こうに、佐夜はまだいる。拒まれてはいない。でも、もう「ただの右筆」として迎えてもらえることは、二度とないだろう。
それがどうしようもなく寂しかった。
いつも読んでいただきありがとうございます。
もしよろしければ、ブックマークやイイネをお願いします。
また気に入ってくださいましたら評価★★★★★を宜しくお願いいたします。
執筆の励みになりますので、よろしくお願いいたします。




