【第24話】法と経済の波
清水の湊での嵐から、数日が過ぎていた。
僕と佐夜の間には、表面上の変化は起きていない。僕が遠州屋に顔を出せば、彼女は以前と同じように帳簿の手伝いを頼んできた。
だが、ふとした瞬間に彼女が僕へ向ける視線には、もう隠しきれない「畏れ」が混じっていた。
「……あの右筆、大嵐の中で船を引き上げる算段を立てたって本当か?」
「ああ。あの混乱の中で迷いなく大荷を捨てさせ、滑車の手順まで指図したらしい。ただの右筆じゃねえな」
湊へ出向けば、漁師や水夫たちのそんなヒソヒソ話が耳に入るようになった。
遠州屋の船を救った「ただ者ではない右筆」の噂は、風に乗って駿府の町にまで広がりつつあった。
そして当然ながら、その噂は「この男」の耳にも届いていた。
「……随分と派手な真似をしたようだな、圭」
臨済寺の奥座敷。
今川家を裏で操る黒衣の宰相、太原雪斎は、盤上の碁石をパチリと打ちながら僕を一瞥した。
その鋭い眼光に、僕は心臓を鷲掴みにされたように身を固くした。ついに正体を問い詰められるのか、あるいは「得体の知れない化け物」として処分されるのか。背中に冷たい汗が伝う。
「じ、実はあれは……」
「良い」
言い訳を絞り出そうとした僕を、雪斎は短く切り捨てた。
「お前がどうやって海を知ったのかなど、どうでもよい。だが、お前のその『誰も思いつかぬ筋道』を立てる頭の回りは、余りあるほどの使い道がある」
「使い道……?」
「国のためだ。ついて参れ」
雪斎に連れられて向かったのは、駿府館の一室だった。
そこには数人の気難しい顔をした実務官(奉行)たちが車座になり、山積みになった書状や木簡を前に激論を交わしていた。
時は天文二十二年(一五五三年)。
僕は歴史学徒として、この年に今川家で「何が行われているか」を知っていた。
今川仮名目録追加――先代から続く今川の法律を、時代に合わせて大規模に改訂する、歴史的な一大法整備の真っ最中だったのだ。
「……やはり、今度ばかりは、御再考いただけぬものか」
末席に座らされた僕の前で、恰幅の良い実務官が声を張り上げた。
「御屋形様が無闇な徳政を禁じておられるのは、重々承知しております。なれど、地侍どもが借金のかたに田畑を質に取られては、軍役も年貢も立ち行きませぬ。商人どもの証文ばかり守っていては、武家の足腰が痩せ細りますぞ」
「うむ。此度ばかりは、御慈悲をもって借金を帳消しにする御沙汰を仰ぐべきかと。このままでは、領内の不満が抑えきれませぬ」
彼らの論調は、当時の武士としては極めて真っ当な統治の理屈だった。
農民や地侍の生活(軍役)を守るのが武家の務め。だから権力で借金を強引にチャラにしてしまえばいい。それが領民を救う「徳」なのだと。
嵐のあとの遠州屋で、濡れた帳簿を抱えながら水夫の名を一人一人確かめていた佐夜の姿が脳裏をよぎった。
彼女たちがどれほどの血の滲むような思いで「信用」を築き、銭を回しているかを知ってしまった僕にとって、武士たちのその乱暴な理屈はどうしても聞き流せなかった。
「……そんなことをすれば、他国の商人は二度と駿河に来なくなります」
気づけば、口が動いていた。
実務官たちが一斉に殺気立った視線を向けてくる。
(しまった……! また余計なことを……!)
嵐の海で現代知識を曝け出し、佐夜との心地よい関係を壊してしまったばかりだというのに。僕は己の迂闊さを呪い、咄嗟に視線を落とした。
「なんだお前は。雪斎様が連れてきたとはいえ、たかが寺の右筆が政に口出しをするな!」
「待て。言わせてみろ」
制止したのは雪斎だった。彼は面白そうに目を細め、顎でしゃくって僕に先を促す。
その瞬間、全身の血がサッと引くのを感じた。これは偶然ではない。遠州屋に出入りする僕が、この商人の話題を絶対に黙って聞き流せないと見越して、雪斎はあえて僕をこの場へ連れてきたのだ。
(いや、これ以上はマズい……!)
僕は口を噤み、困り果てた顔で雪斎を見つめ返した。だが、彼の笑みを湛えた黒い瞳には、有無を言わせぬ無言の圧力が渦巻いていた。
「……商いの根本は、ただの銭ではなく『信用』です」
僕は逆らうことを諦め、震える膝を隠しながら現代の法学と経済学の基礎知識を引っ張り出した。
「武士の都合で一方的に借金を踏み倒す法を作れば、商人は駿河の武士を信用しなくなります。結果、金を貸さなくなるか、貸すとしても徳政令による取りっぱぐれを見越して、利息を法外に跳ね上げるでしょう」
「な、なにを……」
「商人が安心して銭を貸し、荷を預けられるようにしなければ、いずれ荷は駿河を通らなくなります。駿河を豊かな国にしたいなら、徳政令で借金を帳消しにするのではなく、むしろ『徳政をむやみに出さず、証文で交わした商人の約束は今川の法で守る』という条文を入れるべきです。そうすれば、全国から安心して商人が集まり、結果として今川の運上金(税収)は増えます」
しんと、部屋が静まり返った。
武士の誇りや感情論で語られていた会議に、僕は『信用を守れば人も銭も集まる』という、身も蓋もない打算の理屈を叩きつけてしまったのだ。
「……生意気なっ! 寺の坊主の分際で武士の政に口を——」
顔を真っ赤にした実務官が立ち上がりかけた、その時。
「わしが日頃から申しておる通りのことではないか」
雪斎の静かな声が、部屋の空気を一瞬で凍らせた。
実務官たちがビクッと肩を震わせる。
「わしや御屋形様(義元)が、今川の国力を削ぐ無闇な徳政を禁ずると何度言っても、お主らは『地侍が立ち行かぬ』『武士の足腰が』などと、その場しのぎの情に流されて、首を縦に振らなかった。だが、見ろ」
雪斎は扇子で僕を指し示した。
「政の何たるかも知らぬ寺の右筆ですら、少し銭の勘定をさせれば、道理がどちらにあるか見抜くぞ。情や誇りで国は富まぬ。国を富ませるのは『銭の道理』だ」
「……っ!」
実務官たちは一言も反論できず、深く平伏した。
「記録しろ。こやつの言葉の通り、商人間の契約を保護し、みだりな徳政を禁ずる条文を入れる」
史実においても、この一五五三年の『今川仮名目録追加』は、商取引や徳政をめぐる規定を含み、領国経済を安定させる先進的な法整備として評価されている。
——評価されている。僕が、口を出したのに。
僕は息を呑み、平伏する実務官たちを見下ろしている黒衣の宰相を見つめた。
僕は歴史を変えたのだろうか。それとも、変えたつもりで、最初から決められた筋書きをなぞっただけなのか。
臨済寺で雪斎がパチリと打った碁石の音が、不意に耳の奥で蘇る。
盤上の勝敗は、僕がこの時代に現れるよりずっと前から、とうに決まっていたのかもしれない。僕という『石』が、いつ、どこに置かれるのかも含めて。
一人の命や、一隻の船を救うのとは次元が違う。
歴史という巨大な渦に、足元から呑み込まれていくような感覚。
僕は今、自分が歴史を変えているのかどうかも分からないまま、この本物の怪物に完全に首根っこを掴まれてしまったのだ。




